遠藤周作「聖書のなかの女性たち」
2008/11/13/Thu
「この数ヶ月目をとおしてきた遠藤周作の著作のなかで、もし遠藤の抱懐してたキリスト像の関心から一冊をえらぶとするなら、私は神学研究に挫折した学者の姿と古代のイエスの物語を連関して描いた「死海のほとり」を推すと思う(→遠藤周作「死海のほとり」)。ただ「死海のほとり」のおもしろさというのは、それ単体としてみてもあんまり明瞭になることでなくて、ここで描出されるイエス物語も学術的に見たら正確なものとはとうていいえないし、イエスの残影に縛られて人生の途上で喘ぐ二人の初老の男の苦い苦しみの生き方の光景は、ただそれだけであってこの本のなかではそれ以上に進み描かれることはないから、「死海のほとり」だけを読んじゃう人がいたら、そこから受ける文学的印象はとりたてて大したものでないだろなって気がする。その意味で、「死海のほとり」は微妙な出来だっていってもよろしかもだし、小説の形態はとってるにしても中心の問題はきわめて遠藤個人に密着した宗教的関心であって、遠藤文学全体を俯瞰するときはべつとしても、それ以外で高く評価するには地味なものがあるのはたしかかなって、私は思う。‥でも、ただ思うのは、本書「聖書のなかの女性たち」のように、遠藤がクリスチャン作家としての面目躍如として代表される著作の表層的な聖書文学は、修辞的に凝ってるためもあって一般受けしやすい傾向のものであるだろなってことは疑わないけど、そこからさらに遠藤のキリスト教への興味の向き方のとても独特な形式‥奇矯なパーソナルなスタイルを認めようとするときには、「沈黙」を継いで書かれた「死海のほとり」の息苦しさが、きわめて重要な位置に位するからって、私は思うから、こうつよく、いっちゃうのだろな。それは遠藤の、著作の表面には出せなかった、ある暗い暗い想念のように、思えるから。」
「「聖書のなかの女性たち」、か。ま、あえて解説する労はいらない著作でしょうね。いってみれば日本人の書いた聖書へのガイドブックのこれほどないほどの見本ともいえるでしょうし、ま、そう一概にいえないこともあるでしょうが、しかしそういった評価で一件落着するであろう類の本であることはまずまちがいないでしょうね。だからこの一冊を取り上げて、遠藤周作のキリスト教観をいろいろいうことには、それほど関心も湧かないといったところかしら。表題のとおりの、丁寧な本といったものでしょうからね。」
「だから私には遠藤の個人的な述懐を記した、付録されてる「秋の日記」のほうが、よく興味がもてたかなって思える。これは、いいよね。素敵。遠藤のなかでもこんなにきれいな文章はほかにないのじゃないかな。何はともあれ、この日記を読むだけでも、遠藤周作の価値はあるのかも。ほんと、こういう情景をみれたというだけで、私は遠藤の著作の価値を認めちゃうかな。そういう態度は、たぶんいくないのだけど、ね。」
「病床に伏した遠藤がつづった日記、か。ここで述べられている各種テーマは、のちの作品で文学的に結実することは、多少遠藤に親しんでいる人にはいうまでもないことでしょう。聖書のなかの女性たちも、ま、聖書の読み方の一模範としてはそうわるくはないのでしょうが。むずかしいところよね。聖書の読み方なんてことをいうと、怒られないほうが不思議でしょうし。本当、不謹慎なブログよ、これは。」
『私たち多くの人生というものは私たち小説家が時として撰んで描くような冒険や事件や英雄的行為などはない。若い人々が恋愛や結婚がどんなに素晴らしいかを憬れるが、本当の結婚の動機とは安岡章太郎が『舌出し天使』で書いたように一人の男と一人の女がデパートの食堂でお好みランチを共にたべあったことで決るような平凡さと凡庸さに充ちているのである。そして顔を洗う。食事をする。満員電車にのる。風邪を引く。そうした凡庸な日常性を私たちは避けて通れない。『田舎司祭の日記』の主人公の生活ははじめの頁から最後の頁までこの顔を洗い、満員電車にのる私たちの生活と同じつまらぬ出来ごとに埋められている。彼の毎日は私たちのそれと同じように、意味のない日常性にかこまれている。ところが少しずつ、眼だたず、この詰らぬ日常の出来ごとから彼は生きはじめる。我々と同じ石ころの上、同じデコボコのわずらわしい路を歩きながら彼は聖人となる。
どこからそうなったのか。
聖書を読む時、私たちはやはりこのことに気をつけねばならぬ。聖書はあまりに劇的な場面にみちみちているので、我々はそのかげにかくれたつまらぬ日常生活をあの中の人々がどう生きたかを知らず、自分より遠い人間のように思いがちである。』
遠藤周作「聖書のなかの女性たち」
遠藤周作「聖書のなかの女性たち」
「「聖書のなかの女性たち」、か。ま、あえて解説する労はいらない著作でしょうね。いってみれば日本人の書いた聖書へのガイドブックのこれほどないほどの見本ともいえるでしょうし、ま、そう一概にいえないこともあるでしょうが、しかしそういった評価で一件落着するであろう類の本であることはまずまちがいないでしょうね。だからこの一冊を取り上げて、遠藤周作のキリスト教観をいろいろいうことには、それほど関心も湧かないといったところかしら。表題のとおりの、丁寧な本といったものでしょうからね。」
「だから私には遠藤の個人的な述懐を記した、付録されてる「秋の日記」のほうが、よく興味がもてたかなって思える。これは、いいよね。素敵。遠藤のなかでもこんなにきれいな文章はほかにないのじゃないかな。何はともあれ、この日記を読むだけでも、遠藤周作の価値はあるのかも。ほんと、こういう情景をみれたというだけで、私は遠藤の著作の価値を認めちゃうかな。そういう態度は、たぶんいくないのだけど、ね。」
「病床に伏した遠藤がつづった日記、か。ここで述べられている各種テーマは、のちの作品で文学的に結実することは、多少遠藤に親しんでいる人にはいうまでもないことでしょう。聖書のなかの女性たちも、ま、聖書の読み方の一模範としてはそうわるくはないのでしょうが。むずかしいところよね。聖書の読み方なんてことをいうと、怒られないほうが不思議でしょうし。本当、不謹慎なブログよ、これは。」
『私たち多くの人生というものは私たち小説家が時として撰んで描くような冒険や事件や英雄的行為などはない。若い人々が恋愛や結婚がどんなに素晴らしいかを憬れるが、本当の結婚の動機とは安岡章太郎が『舌出し天使』で書いたように一人の男と一人の女がデパートの食堂でお好みランチを共にたべあったことで決るような平凡さと凡庸さに充ちているのである。そして顔を洗う。食事をする。満員電車にのる。風邪を引く。そうした凡庸な日常性を私たちは避けて通れない。『田舎司祭の日記』の主人公の生活ははじめの頁から最後の頁までこの顔を洗い、満員電車にのる私たちの生活と同じつまらぬ出来ごとに埋められている。彼の毎日は私たちのそれと同じように、意味のない日常性にかこまれている。ところが少しずつ、眼だたず、この詰らぬ日常の出来ごとから彼は生きはじめる。我々と同じ石ころの上、同じデコボコのわずらわしい路を歩きながら彼は聖人となる。
どこからそうなったのか。
聖書を読む時、私たちはやはりこのことに気をつけねばならぬ。聖書はあまりに劇的な場面にみちみちているので、我々はそのかげにかくれたつまらぬ日常生活をあの中の人々がどう生きたかを知らず、自分より遠い人間のように思いがちである。』
遠藤周作「聖書のなかの女性たち」
遠藤周作「聖書のなかの女性たち」
