ef - a tale of melodies. 第9話「return」
2008/12/03/Wed
「雨宮先生のさいごは、これはもう完全にバルザックのそれだよね(→バルザック「知られざる傑作」)。あるいはモームの芸術家の極限の姿だったかな(→サマセット・モーム「月と六ペンス」)。どちらにせよ、人は芸術家の究極的な光景を思い浮べるに際して極度にカタストロフィックな場面を想定しちゃいがちなのかなって気が免れないように思えてくるほど、このefって作品においても真実狂気の一部に魂を売ったであろう絵描きであった雨宮先生は、ほかの作家が熱情的な感覚の虜として思い描いた画家の臨終の瞬間と同じく、劫火のなかに作品といっしょに消える孤高の人間の力あふるる画面を刻みこんだのだった。‥モームもバルザックも、そして日本のアニメ製作者のシャフトも、画家の死する術には炎をえらんだのは何かおもしろい共通点かなって思えちゃうな。理想の狂気に身を焦がした芸術家には、その死を燃やし尽す使命があるかのようだよね。ここは少しふしぎ。」
「芸術の凄絶さを証し立てるのには、火というイマジネイションこそが最適だということなのかしら。奇しくも過去の文学作品と同じく雨宮もまたそのある意味天才のために、まちがいなく傑作であったろう少女の絵画と焼死することを選択した、か。ま、自身の限界に突き当ったために死んだバルザックの作品とは異なり、満足したために死んだのはモームのそれと同一といってよいのでしょうね。そういうことでは、雨宮は真底から芸術家だったということはできてしまうのかしら。」
『医学が、病気から生れたものではなく、それどころか、自分の存在理由を手に入れるために、完全に、病気を呼び起し、病気をでっちあげたとすれば、それは苦しみから生れたものだ。ところが、精神病学というやつは、病気の源になんとかこの苦しみを保存しようとねがった一群のいやしい連中のなかから生れた、彼ら自身の虚無性から一種のスイス人警護兵を引っぱり出して、天才の根源にある、何ものかを求めてやまぬ反逆的な心の高まりを、その根底において、お払い箱にするような連中のなかから、生れ出たのである。
すべての狂人のなかには、理解されざる天才がいて、かつて彼の頭のなかで輝いていたこの天才の観念が人びとをおそれさせたわけだが、この天才は、人生があらかじめ彼に課した八方ふさがりの状態から抜け出す道を、錯乱のなかにしか見出しえなかったのっだ。』
アントナン・アルトー「ヴァン・ゴッホ」
「思わずアルトーの文章をもってきちゃうほど、今回の話は私てきにはけっこうしびれるものがあったかなって思う。雨宮先生というのは、その死への道程を思い返すと、ただほんとに亡くなった妹さんへの未練のためだけにいまだ生きていたのであって、彼が死のうとしない理由‥これは彼が完全に狂おうとしなかった原因でもあったかなって思うけど‥は、妹の顔を思いだすことができなくて、それを絵に描きとめられないで死ぬには忍びなかったからだったのだろなって、私には思われる。ここで肝心なのは雨宮先生が妹の絵を納得いくように描けないって、その理由だけのために優子さんを虐待してたという事情も関係してくることで、それはつまり雨宮先生は絵を描きあらわすことに久瀬さんの言葉を借りるなら「過去の清算」の意味をこめてたってことが判然としてきちゃうから、なのだよね。そしてその行為は運不運に左右されちゃう人の天命に対しての明確な反抗の提示であり、さらに完全な記憶の復元による絵画の完成は、つまるところ雨宮先生のなかでの妹さんの「復活」まで意味するのであったことは、彼が愛しいキャンバスを抱いて火炎のなかに消えてく情景に象徴的に示されてたのでなかったかなって、私は思う。‥雨宮先生が悲しんでたのは自身の妹の記憶の不十分さであり、その欠落を埋めることができたとき、彼が生きつづける理由も自然と消えた。まったく、消えちゃった。」
「だからこそ、世間はそれを狂気と呼ぶ、か。ま、不幸な人よね。それをいったら優子も火村も決して運がよかったとはいえないのでしょうが、しかしその才能と感情の己を突き動かす強さは、雨宮が一段と突き抜けていた、か。彼が幸福に死ねたかどうかは、議論するまでもないでしょう。」
「もう一方の久瀬さんのお話もそろそろ佳境、かな。こちらはこちらで、火村さんがまたしつこく係ってくるみたいでどうなっちゃうのかよく予想できないかな。久瀬さんの苦しみは、なかなかかんたんに断じえない類のものであるから、とりあえずさいごまで見届けてから、私は何か言葉を紡ぎたい。ミズキにはそこそこ期待、かな。彼女の内面は、まだ私には、遠いけど。」
「なぜミズキがそこまで久瀬に接触しようとするのか、そこらの根本的な部分はまだ描写されていないのよね。久瀬の泣き崩れるシーンはなかなかインパクトがあったし、はてさて、どうまとめるつもりなのかしら。ま、期待よ。一期に比べて、二期は本当によいのでないかしら。実にいい完成度を保ってくれていて、見ていて気分のいいことよ。素直に次回を楽しみにしようとしましょうか。」
「芸術の凄絶さを証し立てるのには、火というイマジネイションこそが最適だということなのかしら。奇しくも過去の文学作品と同じく雨宮もまたそのある意味天才のために、まちがいなく傑作であったろう少女の絵画と焼死することを選択した、か。ま、自身の限界に突き当ったために死んだバルザックの作品とは異なり、満足したために死んだのはモームのそれと同一といってよいのでしょうね。そういうことでは、雨宮は真底から芸術家だったということはできてしまうのかしら。」
『医学が、病気から生れたものではなく、それどころか、自分の存在理由を手に入れるために、完全に、病気を呼び起し、病気をでっちあげたとすれば、それは苦しみから生れたものだ。ところが、精神病学というやつは、病気の源になんとかこの苦しみを保存しようとねがった一群のいやしい連中のなかから生れた、彼ら自身の虚無性から一種のスイス人警護兵を引っぱり出して、天才の根源にある、何ものかを求めてやまぬ反逆的な心の高まりを、その根底において、お払い箱にするような連中のなかから、生れ出たのである。
すべての狂人のなかには、理解されざる天才がいて、かつて彼の頭のなかで輝いていたこの天才の観念が人びとをおそれさせたわけだが、この天才は、人生があらかじめ彼に課した八方ふさがりの状態から抜け出す道を、錯乱のなかにしか見出しえなかったのっだ。』
アントナン・アルトー「ヴァン・ゴッホ」
「思わずアルトーの文章をもってきちゃうほど、今回の話は私てきにはけっこうしびれるものがあったかなって思う。雨宮先生というのは、その死への道程を思い返すと、ただほんとに亡くなった妹さんへの未練のためだけにいまだ生きていたのであって、彼が死のうとしない理由‥これは彼が完全に狂おうとしなかった原因でもあったかなって思うけど‥は、妹の顔を思いだすことができなくて、それを絵に描きとめられないで死ぬには忍びなかったからだったのだろなって、私には思われる。ここで肝心なのは雨宮先生が妹の絵を納得いくように描けないって、その理由だけのために優子さんを虐待してたという事情も関係してくることで、それはつまり雨宮先生は絵を描きあらわすことに久瀬さんの言葉を借りるなら「過去の清算」の意味をこめてたってことが判然としてきちゃうから、なのだよね。そしてその行為は運不運に左右されちゃう人の天命に対しての明確な反抗の提示であり、さらに完全な記憶の復元による絵画の完成は、つまるところ雨宮先生のなかでの妹さんの「復活」まで意味するのであったことは、彼が愛しいキャンバスを抱いて火炎のなかに消えてく情景に象徴的に示されてたのでなかったかなって、私は思う。‥雨宮先生が悲しんでたのは自身の妹の記憶の不十分さであり、その欠落を埋めることができたとき、彼が生きつづける理由も自然と消えた。まったく、消えちゃった。」
「だからこそ、世間はそれを狂気と呼ぶ、か。ま、不幸な人よね。それをいったら優子も火村も決して運がよかったとはいえないのでしょうが、しかしその才能と感情の己を突き動かす強さは、雨宮が一段と突き抜けていた、か。彼が幸福に死ねたかどうかは、議論するまでもないでしょう。」
「もう一方の久瀬さんのお話もそろそろ佳境、かな。こちらはこちらで、火村さんがまたしつこく係ってくるみたいでどうなっちゃうのかよく予想できないかな。久瀬さんの苦しみは、なかなかかんたんに断じえない類のものであるから、とりあえずさいごまで見届けてから、私は何か言葉を紡ぎたい。ミズキにはそこそこ期待、かな。彼女の内面は、まだ私には、遠いけど。」
「なぜミズキがそこまで久瀬に接触しようとするのか、そこらの根本的な部分はまだ描写されていないのよね。久瀬の泣き崩れるシーンはなかなかインパクトがあったし、はてさて、どうまとめるつもりなのかしら。ま、期待よ。一期に比べて、二期は本当によいのでないかしら。実にいい完成度を保ってくれていて、見ていて気分のいいことよ。素直に次回を楽しみにしようとしましょうか。」