CLANNAD ~AFTER STORY~ 第10話「始まりの季節」
2008/12/06/Sat
「この話は人の立場によってはいろいろ感慨が異なるものであるのかなって気が少しする。この学校を卒業してそこからまったく拘束のなくなった、またそれは自由とともに自分のこれまで何も主体的にしてこなかった無を如実に意味するであろう空白のときは、思い当る人にはとてもよく理解できるであろう時間なのだろし、それに対して抱く感情が一方ならないものがあることもたぶん了解できることなのじゃないかな。今回のエピソードこれだけで、あまりあっさり済ませすぎちゃってたんじゃないかなって、不満に思ったりも私はするのだけど、でももちろんそういった悩みなり苦しみというのは、とても個人的に閉ざしてるもので他人にそうそう話せるものでもないし、まただらだらと会話劇によって演出してもわざとらしくなるだけのことにはちがいないことはわかるから、そうつよくはいわないのだけど、ね。ただなんとなく、この社会的に自分がゼロだって認識させられる時間というのは、人によってはとても大切な時期に当てはまることになるんじゃないかなって、私はそれをつよく感傷的に思っちゃうから、よけいにまだふかく描けるべき部分はあったのじゃなかったかなって思っちゃうのかな。なんていうのかな、これは体験した人ならだれもが気づくことだろし、そしてわかってるからこそあえて口にしないでいることなのだと思うけど、未来が不安で孤独に塗りつぶされる時間って、ときにおいて人によって、愛しいものでさえ、ある。朋也もまた、だからこそ転機を図って仕事をはじめたこの時間は、あとあとになってたぶんきっと思ってもみない印象を記憶に刻みこむことになるのじゃないかなって、私は少しそう思う。」
「原作ではここらはもう少していねいに描かれたのだったかしらね。パン屋に安穏としていてはだめになるだろうという予感があったからこそ、渚との一悶着があって、それで一人暮らしをはじめたのだったかしら。ま、そこを杏や椋という充実した日々を送ってる様子の元の同級生をつかって展開の速度を早ませるというのは、作劇の問題としてそうわるい手ではなかったのでしょう。実際ああいった感じに、いかに親しい時間が多くあったとはいえ、人々はそれぞれの生活を別れて送って行くものなのでしょうね。そこに善悪がないからこそ、よけいに容赦なくも感じられてしまうのでしょう。少し感傷的になる話かしら。」
「でもそんな状況のなかで献身的な恋人がいる朋也はやなやつ、かもかな。といって、恋人がいる人はいるしいない人はいないし、いても不幸の重荷を背負わされて参っちゃってるなんて人もないでないから、そこは個々人のあり方の相違ということで済ませるほかないことかなとは思うけど。でも朝起きたらごはんつくってもらってるだなんて、いろいろお話として生活感が実際に出てきたこの段階でもあるから、より親身な雰囲気が増してきたようにも感じられてきちゃって、印象をつよめちゃってるのだろな。‥朋也って、基本的に孤独じゃあれない人なんだよね。たぶん彼はひとりきりでいたらどんどん堕落してしまう予感がおのずから内々に感じられてるのかもって思われる節はところどころにある気がする。もしかしたら自立って観念からいちばん縁遠い性質を付与されてるのが、朋也という人となりの著しい特徴だって規定することができちゃうのかも。春原や渚がとなりにいない朋也なんて、想像できないものね。もちろんそれがわるいことだって切り捨てちゃうのは、しちゃいけない人の温情というのを無視した意見になっちゃうのかもだけど、でも物語の成行を思うに微妙なところがあるのはたしかかな。ひとりで放っておくと、彼ほど不安な人はないのかもだし、そしてそれが彼がもてる理由の一端だっていったら、お笑い種かななのだけど、ね。」
「ま、仲間というかパートナーよね、朋也が常に欲しているのは。それだからこそ大切な他者というキーワードが頻繁に用いられるのだろうし、だれかのためにがんばれるから人は幸福なのだという意見があれば、それはそのとおりだと首肯するしかないでしょう。がしかし、不幸というのはあるものよ。この作品が優れているのはまさにその世間的な不幸の陥りがちな結末を描き出した点にあるのだけれど、さてその成否はこの段階での朋也のがんばりの積み重ねの描写の蓄積にかかっているとはいえるのでしょう。ま、ここからね、この作品は。お手並みをひとつ拝見させてもらうとしましょうか。」
「原作ではここらはもう少していねいに描かれたのだったかしらね。パン屋に安穏としていてはだめになるだろうという予感があったからこそ、渚との一悶着があって、それで一人暮らしをはじめたのだったかしら。ま、そこを杏や椋という充実した日々を送ってる様子の元の同級生をつかって展開の速度を早ませるというのは、作劇の問題としてそうわるい手ではなかったのでしょう。実際ああいった感じに、いかに親しい時間が多くあったとはいえ、人々はそれぞれの生活を別れて送って行くものなのでしょうね。そこに善悪がないからこそ、よけいに容赦なくも感じられてしまうのでしょう。少し感傷的になる話かしら。」
「でもそんな状況のなかで献身的な恋人がいる朋也はやなやつ、かもかな。といって、恋人がいる人はいるしいない人はいないし、いても不幸の重荷を背負わされて参っちゃってるなんて人もないでないから、そこは個々人のあり方の相違ということで済ませるほかないことかなとは思うけど。でも朝起きたらごはんつくってもらってるだなんて、いろいろお話として生活感が実際に出てきたこの段階でもあるから、より親身な雰囲気が増してきたようにも感じられてきちゃって、印象をつよめちゃってるのだろな。‥朋也って、基本的に孤独じゃあれない人なんだよね。たぶん彼はひとりきりでいたらどんどん堕落してしまう予感がおのずから内々に感じられてるのかもって思われる節はところどころにある気がする。もしかしたら自立って観念からいちばん縁遠い性質を付与されてるのが、朋也という人となりの著しい特徴だって規定することができちゃうのかも。春原や渚がとなりにいない朋也なんて、想像できないものね。もちろんそれがわるいことだって切り捨てちゃうのは、しちゃいけない人の温情というのを無視した意見になっちゃうのかもだけど、でも物語の成行を思うに微妙なところがあるのはたしかかな。ひとりで放っておくと、彼ほど不安な人はないのかもだし、そしてそれが彼がもてる理由の一端だっていったら、お笑い種かななのだけど、ね。」
「ま、仲間というかパートナーよね、朋也が常に欲しているのは。それだからこそ大切な他者というキーワードが頻繁に用いられるのだろうし、だれかのためにがんばれるから人は幸福なのだという意見があれば、それはそのとおりだと首肯するしかないでしょう。がしかし、不幸というのはあるものよ。この作品が優れているのはまさにその世間的な不幸の陥りがちな結末を描き出した点にあるのだけれど、さてその成否はこの段階での朋也のがんばりの積み重ねの描写の蓄積にかかっているとはいえるのでしょう。ま、ここからね、この作品は。お手並みをひとつ拝見させてもらうとしましょうか。」