ef - a tale of melodies. 第10話「reunion」
2008/12/11/Thu
「優子さんの死の理由がひき逃げとされたのは、展開の構成上からもっと強引でない方法がとれたのでないかなって気がして、少し惜しい。せっかくここまでていねいに描けてきてたのに、敵方の雨宮先生の死にだって火のなかに自作と消える画家って狂気性を付与できたのに、優子さんの死に方が単なる事故としてああいうふうに済ませて終っちゃうのは、いかにも必然性が薄くて残念じゃない。つまり優子さんの死は、ただふと訪れた不運のために起ったということで、これは物語全体のテーマのひとつであろう世界の理不尽さの片翼を担うことにはなってるのかもだけど、でも少し演出の仕方が強引だったのでないかなって気持は否めない。もちろん、これは作品の構成の面からいってるのであって、思想、メッセージ性の観点からいうなら、幸福になろうとようやくそのはじまりに着けた少女が、なんの理由もないだろう状況の不幸のためだけにわけなく死んじゃうという事態のもつ、とてもどうしようもなくて、そしてそれゆえに世間にありふれた悲劇の形態をここであらわすことは、意外と考えさせられちゃうストーリーの運びではあるなとは思うかな。そう、この手の理不尽さは、どうしようもなくあるものだ。しかも理由もなくて、なんの意味もなくて、深刻に考えても疲れるだけの、ほんとの悲劇の性質として、人の人生の途上に災難は降りかかる。だから、神さまなんていないって嘆じる優子さんは、ある意味正しい。でも、そういって終らせられないから、人は苦しいのだけど。」
「悲劇なのでしょうね。まったく、これは悲劇なのよ。そして本作に散りばめられた数多くのキリスト教的モチーフは、この結末を促すためにあったのかとも思えるかしら。当然、本作はそこまでキリスト教的な問題を全面には押し出してないし、ある意味表面上のことだけとして、マリア像に跪く優子の姿はあったのかもしれないけれど、ま、それでも、いくらか思わせられる展開かしら。ただしかし、内面的な意味でのクリスチャンはこの作品のなかには登場してはいないのが実情でしょうけど、ここに問われてるものがものであるだけに、なかなか切りこむには厄介なものはあるのでしょうね。」
「まさにこれはカラマーゾフが投げかける問題であるだろうから、かな。そして私が今回のお話を見て思いだしたのは、クシュナーの説くとこの言葉だったのはここに告白しとく(→H・S・クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」)。‥なぜ人の人生にはこういった不運があらわれるのか、か。なんでなんだろ。私には、わからない。だから少しひどく聞こえるかもだけど、このエピソードでつよく心揺さぶられたのはむしろ火村さんの生き方のほうであって、優子さんは死んじゃったから、ある意味彼女の苦しみはもう完結しちゃってるって、いえてしまうのかもしれないよね。というより、むしろそう思うほかないのが‥死んで優子さんはもう苦しまずに済むのだと考えるしかないのが‥とり残された火村さんの立場であって、そして前を目指してく以外の選択肢のない人の宿命だっていいうるのかもかなって、私は思う。火村さんは、前へ進むっていった。前へ、前へ。でもその前へは、同伴者を失ったとても、進まなきゃいけない性質のものであることに、火村さんは気づいてしまった。前へ、前へ。ときが経って、ふり帰ろうと、もうあとへは戻れない。でも、前へ前へ‥」
「時間は過ぎ行くばかりなり、か。そしてそう、優子の存在は思い出として刻まれるほかないのでしょうね。そしてその記憶は、ひどく火村を縛りつけ痛めつけるものにほかならず、しかしその痛みは優子への感情とも密接に係ったものであるから、捨て去るわけには行かない。しかし、前へ、か。まったく、前にしか進めないのよね、人は。ちがいはそれを意識するかしないかのほかはないのでしょうけど、ただ、そのちがいは存外大きいのよ。前になど道はない。ただ歩いた跡が道になるのだといったのは魯迅だったかしら。本当、そのとおりよ。」
→遠藤周作「満潮の時刻」
「悲劇なのでしょうね。まったく、これは悲劇なのよ。そして本作に散りばめられた数多くのキリスト教的モチーフは、この結末を促すためにあったのかとも思えるかしら。当然、本作はそこまでキリスト教的な問題を全面には押し出してないし、ある意味表面上のことだけとして、マリア像に跪く優子の姿はあったのかもしれないけれど、ま、それでも、いくらか思わせられる展開かしら。ただしかし、内面的な意味でのクリスチャンはこの作品のなかには登場してはいないのが実情でしょうけど、ここに問われてるものがものであるだけに、なかなか切りこむには厄介なものはあるのでしょうね。」
「まさにこれはカラマーゾフが投げかける問題であるだろうから、かな。そして私が今回のお話を見て思いだしたのは、クシュナーの説くとこの言葉だったのはここに告白しとく(→H・S・クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」)。‥なぜ人の人生にはこういった不運があらわれるのか、か。なんでなんだろ。私には、わからない。だから少しひどく聞こえるかもだけど、このエピソードでつよく心揺さぶられたのはむしろ火村さんの生き方のほうであって、優子さんは死んじゃったから、ある意味彼女の苦しみはもう完結しちゃってるって、いえてしまうのかもしれないよね。というより、むしろそう思うほかないのが‥死んで優子さんはもう苦しまずに済むのだと考えるしかないのが‥とり残された火村さんの立場であって、そして前を目指してく以外の選択肢のない人の宿命だっていいうるのかもかなって、私は思う。火村さんは、前へ進むっていった。前へ、前へ。でもその前へは、同伴者を失ったとても、進まなきゃいけない性質のものであることに、火村さんは気づいてしまった。前へ、前へ。ときが経って、ふり帰ろうと、もうあとへは戻れない。でも、前へ前へ‥」
「時間は過ぎ行くばかりなり、か。そしてそう、優子の存在は思い出として刻まれるほかないのでしょうね。そしてその記憶は、ひどく火村を縛りつけ痛めつけるものにほかならず、しかしその痛みは優子への感情とも密接に係ったものであるから、捨て去るわけには行かない。しかし、前へ、か。まったく、前にしか進めないのよね、人は。ちがいはそれを意識するかしないかのほかはないのでしょうけど、ただ、そのちがいは存外大きいのよ。前になど道はない。ただ歩いた跡が道になるのだといったのは魯迅だったかしら。本当、そのとおりよ。」
→遠藤周作「満潮の時刻」