とらドラ! 第11話「大橋高校文化祭【前編】」
2008/12/12/Fri
「やっぱりメイドだよね、メイドさん。チャイナとか巫女さんじゃなくて、オーソドックスな白黒のメイド姿。大河のメイドさんとかよろしでない? それで、それでね、プロレスよりも拳闘とかしたらどうかな! スカートひらひらさせながら殴りあうのっ。こう‥大河がこう亜美さんあたりを追いつめて、こう‥プラトンパンチをくらへーとか、とか。えへへ‥」
「何その血で血を洗うかのような文化祭。ってかもうそれメイドである必要性がないっていうか、それ以上に相手に禍根を残しまくりじゃ。ってかあんたの趣味って‥」
「プラトンパンチをくらへー!」
「はぐぅあっ!?」
「‥ということで、今回は家族の話、か。「とらドラ!」全体のなかで本エピソードはとくに重要かなと思われる部分で、ある意味こういった家族関係の問題を描いたり追求するものは、世のなかいろいろあるけどでも文学のほかにそこまで突きこめる存在はないのじゃないかなって気がする。よく文学なんてなんの役に立つの?って疑問があるかもだけど、実際のとこ、文学はまるで実際的には役立たない。だけど人類の歴史において文学がかならず求められた理由の一端には、たとえば今回の親子関係の軋みといった事件に象徴されるような、それこそ端的にいって、人の心、他者からは見えなくてふれられない閉じた関係性の世界のなかでくり広げられる、ごく小規模だけどでも人の実人生そのものとしかいえない世界に焦点を当てることというのがあるかなって思う。それは文学のもつ、そして文学を学問的に把握すべきわけの一端が開示されてもいるのかな。つまり明らかにいえば、文学には個々の文学があつかう問題に、同じく苦しむ身も知らない他者の心の同伴になるという意味性があるのであって、その機微はたぶん文学に頼ったことのある、そしてすがるほかなかった人たちにとって地味に伝わる事実のひとつでないかなって、私は思う。‥それだから私は、今回この作品が描いた親子関係の問題に、ある種の共感を汲むことのできる人はたしかにいるだろうってしずかに信じる。親子関係なんて、きれいごとでないものね。そして家族の幸福なんて、道徳の時間のように上手く片づくことでない。親を殺したくなる発作に駆られたことのある人は、たぶん、少なくないわけないだろし。」
「良い父親、良い母親、ま、そういった人らに恵まれた家庭というものはあるものよ。実際。しかしそれとは反対にどうしようもなく恨みつらみで仕方がない家庭に育つ人もいるでしょうし、もう少しべつな場合では、一見して真面目で謹直で、平凡に生きてきたためにだれからも後ろ指を指されるはずがない両親をもちながら、しかしぎすぎすとした居心地の悪さを覚えながら家族にある人というのもいるでしょう。ここらは微妙なのよね。それぞれ人の立場というのはあるものであり、単純にこういう家族だったら理想だとか、貧乏よりは金があったほうがいいとも限らない。一般論にはできないことなのでしょうね。」
「むずかしいな、って思う。‥太宰治は家族を諸悪の根源と説いたけど、今の私は、それはたしかに真実かなって、そう思えてしまう人生観をほとんど得てしまってる。それは何ももちろん大きな不幸を体験したからというのでなくて、ただなんていうのかな、ちょっとした両親の不和やいざこざ、たとえば少しの食い違いで怒鳴りあいになったり冷めた空気が生まれる、そういった場面に接するということは日常の光景という意味において、べつにふだんからありふれたことだってことは当然いえることなのだけど、でもその種の家族という閉鎖関係の与える影響というものは、なかなか人の生き方の基底に響くものではあるかなって気がする。‥もちろん子どもは成長するから、大きくなってふり返って、あの人たちもただの凡庸な人間だったのだから、けんかくらいするよね、とは合点が行く。離婚や親族間での争いがあったとしても、少し冷静に物事を思える人がいたなら、家族っていっても人間だものねって、自分を納得させることができる。でも、なんでなのかな、子どものころの孤独の根ざすところは、やっぱり家庭なんだよ。そしてその切なさをどう処理するかは、私にはむずかしい。‥遠藤周作ならたぶんここで、「生きるって、そんなもんですよ」って、犬のように濡れた目でいうだろな。その言葉に私は、そして、そっと頷くだろな。笑えちゃう、な。」
「しかし家族の問題というのは、踏みこみがたいものなのよね。それはなぜなら他者には他者の家庭があるからであり、この世間の建前は家族の問題は家族内で解決を図るほうが健全で平和だという意識があるからでしょう。しかし、あれよね、家族内での苦しみは、人をぼろぼろにするものよ。逃げられるものでなし、仕方ないとしかいえないでしょうけど、だから文学なんてものを人類は吐き出してきたともいえるのかしら。ま、そうね、運不運はあるのよ。こういった問題の場合は。」
『「生活とは何ですか。」
「わびしさを堪える事です。」』
太宰治「かすかな声」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ5!」
→遠藤周作「火山」
→吉行淳之介「湿った空乾いた空」
→家族の愛のある側面
「何その血で血を洗うかのような文化祭。ってかもうそれメイドである必要性がないっていうか、それ以上に相手に禍根を残しまくりじゃ。ってかあんたの趣味って‥」
「プラトンパンチをくらへー!」
「はぐぅあっ!?」
「‥ということで、今回は家族の話、か。「とらドラ!」全体のなかで本エピソードはとくに重要かなと思われる部分で、ある意味こういった家族関係の問題を描いたり追求するものは、世のなかいろいろあるけどでも文学のほかにそこまで突きこめる存在はないのじゃないかなって気がする。よく文学なんてなんの役に立つの?って疑問があるかもだけど、実際のとこ、文学はまるで実際的には役立たない。だけど人類の歴史において文学がかならず求められた理由の一端には、たとえば今回の親子関係の軋みといった事件に象徴されるような、それこそ端的にいって、人の心、他者からは見えなくてふれられない閉じた関係性の世界のなかでくり広げられる、ごく小規模だけどでも人の実人生そのものとしかいえない世界に焦点を当てることというのがあるかなって思う。それは文学のもつ、そして文学を学問的に把握すべきわけの一端が開示されてもいるのかな。つまり明らかにいえば、文学には個々の文学があつかう問題に、同じく苦しむ身も知らない他者の心の同伴になるという意味性があるのであって、その機微はたぶん文学に頼ったことのある、そしてすがるほかなかった人たちにとって地味に伝わる事実のひとつでないかなって、私は思う。‥それだから私は、今回この作品が描いた親子関係の問題に、ある種の共感を汲むことのできる人はたしかにいるだろうってしずかに信じる。親子関係なんて、きれいごとでないものね。そして家族の幸福なんて、道徳の時間のように上手く片づくことでない。親を殺したくなる発作に駆られたことのある人は、たぶん、少なくないわけないだろし。」
「良い父親、良い母親、ま、そういった人らに恵まれた家庭というものはあるものよ。実際。しかしそれとは反対にどうしようもなく恨みつらみで仕方がない家庭に育つ人もいるでしょうし、もう少しべつな場合では、一見して真面目で謹直で、平凡に生きてきたためにだれからも後ろ指を指されるはずがない両親をもちながら、しかしぎすぎすとした居心地の悪さを覚えながら家族にある人というのもいるでしょう。ここらは微妙なのよね。それぞれ人の立場というのはあるものであり、単純にこういう家族だったら理想だとか、貧乏よりは金があったほうがいいとも限らない。一般論にはできないことなのでしょうね。」
「むずかしいな、って思う。‥太宰治は家族を諸悪の根源と説いたけど、今の私は、それはたしかに真実かなって、そう思えてしまう人生観をほとんど得てしまってる。それは何ももちろん大きな不幸を体験したからというのでなくて、ただなんていうのかな、ちょっとした両親の不和やいざこざ、たとえば少しの食い違いで怒鳴りあいになったり冷めた空気が生まれる、そういった場面に接するということは日常の光景という意味において、べつにふだんからありふれたことだってことは当然いえることなのだけど、でもその種の家族という閉鎖関係の与える影響というものは、なかなか人の生き方の基底に響くものではあるかなって気がする。‥もちろん子どもは成長するから、大きくなってふり返って、あの人たちもただの凡庸な人間だったのだから、けんかくらいするよね、とは合点が行く。離婚や親族間での争いがあったとしても、少し冷静に物事を思える人がいたなら、家族っていっても人間だものねって、自分を納得させることができる。でも、なんでなのかな、子どものころの孤独の根ざすところは、やっぱり家庭なんだよ。そしてその切なさをどう処理するかは、私にはむずかしい。‥遠藤周作ならたぶんここで、「生きるって、そんなもんですよ」って、犬のように濡れた目でいうだろな。その言葉に私は、そして、そっと頷くだろな。笑えちゃう、な。」
「しかし家族の問題というのは、踏みこみがたいものなのよね。それはなぜなら他者には他者の家庭があるからであり、この世間の建前は家族の問題は家族内で解決を図るほうが健全で平和だという意識があるからでしょう。しかし、あれよね、家族内での苦しみは、人をぼろぼろにするものよ。逃げられるものでなし、仕方ないとしかいえないでしょうけど、だから文学なんてものを人類は吐き出してきたともいえるのかしら。ま、そうね、運不運はあるのよ。こういった問題の場合は。」
『「生活とは何ですか。」
「わびしさを堪える事です。」』
太宰治「かすかな声」
→竹宮ゆゆこ「とらドラ5!」
→遠藤周作「火山」
→吉行淳之介「湿った空乾いた空」
→家族の愛のある側面