ef - a tale of melodies. 第11話「reread」
2008/12/18/Thu
「むずかしい問題をよく処理してるかなって思う。この手の展開は安易な感動に走りがちで、正直私も怖々みてたのだけど、でもこれくらいの展開なら十分許容できるかな。勝てない勝負はしないっていってた久瀬さんに対して、みずからの愛で以って真正面から対決を迫るミズキの態度は、正直無神経な面もあったことは否めなかったと思うけど、でもあのときの久瀬さんにはそこまでして自分の孤独の間隙を埋めてくれる他者の存在が必要だっただろうことはいえるから、ミズキのしたふるまいは結果的に最善の手だったのだろな。臆病すぎるほどの久瀬さんが、最終的に生死を賭しての手術を決断したのだものね。あんがいこの作品のなかでいちばん変化したのは久瀬さんだったのかなとも思う。ミズキはちょっと強すぎだよね。無敵すぎかな。」
「ふつうはああいう態度には出れないでしょうね。死を目前にしている病人に向って、幸せになれだの私に惚れられたのが運のつきだの、そういった台詞は通常の感性のもち主なら到底口に出せないことであるのでしょう。一歩まちがえれば無神経のそしりを受けて然るべきでしょうからね。ミズキの強さというのは生来的なものなのでしょう。ああはふつう行かないことよ。」
「ミズキの言葉は少し自己中心的に展開してるきらいがあることは否めないとはいえるから、かな。‥ここはとてもむずかしい部分なのだけど、本作が一貫してとりあげてるテーマのひとつには、人は死の恐怖を如何にして乗り越えられるのか?といったものが措定されてるとはいえることだと思う。そして今回のエピソードではこれに対し、あなたはまだ生きてるんだから死ぬさいごの寸前まで生きなさい。でも私が傍にいてあなたをこのうえないほど幸せにしてみせるから。という言葉でもって、ひとつの回答を示しえたとしてるんだよね。それで、私はこれを率直にいうなら、何をいってるのかよくわからないな、と感じてる。もちろん死に対して愛を向わせるというのは常套手段であるのだろし、また絶望する人にとって自分を見捨てることない他者の存在が巨大な意味を帯びるであろうことは、まず疑えない事実だと思う。‥でも、何かな、死とはもっと無感動で、そして寒い世界だ。それはまともに考えようとするなら発狂するほかない、恐怖だ。そして現代の私たちは死について何ごとか思考することを、まずもって意味のないこととして棄却してるのが、暗黙裡の社会のルールだと私は思う。死について考えつづけることはある意味オカルティックでさえあって、また健全な常識人は死をことさら問題にとりあげたりはまずしない。でも、いつかみんな死ぬという事実は、やっぱりどこか滑稽なのじゃないかな。そしてそういった疑問に囚われたとき、死の無間の奥底に沈んでくような恐怖に憑かれたとき、人は果してどうなっちゃうのか。愛は、それを引っぱれるのか。私にはまだわかんない。」
「死の恐怖の問題は、ま、ね、考え出すとふつう気が狂うものよ。だから、ま、現代人が死を常に他者の風景として流し、そして死後の世界なんてあるわけないでしょうと一笑に付す態度というものも、一面からいえば死の恐怖からの逃避でしかないともいえるのよ。たとえば死後の世界なんてないと人は思っているでしょう。そしてまた自分が死んで消えたあともこの世界は存続している、つづいていくと想定してるのが現代社会でしょう。しかし、どちらも「私」が観測できないという点においては、どちらも滑稽な顔をしているのよ。もちろんふだんの生活で死について考えないでもべつに困らない。がしかし人生の不条理は、死の恐怖をときおりもたらすことを止めることはない。そしてその恐怖に囚われたとき、世界はどのような意味を帯びて個人に迫るのか。ま、はてさてね。考えすぎるとどうしようもない問題ではある、か。」
『「帰りがけに、例の坊やにあったわ」
「例の坊や?」
「いつか話してあげたでしょう。人工肛門を作った可哀想な坊やよ」
「ああ……」
「一応、退院するんですって。付添さんがこちらが訊ねもしないのに教えてくれたのよ。また来年、入院して手術するんですって」
妻は別に悪気もなく今、自分が耳にしたことを明石に報告しただけにちがいなかった。しかし突然、彼は胸のそこから、言いようのない烈しい憤りに捉えられた。それは憤りという以上に、自分でも制禦できぬ感情だった。
「そんな馬鹿な。なぜ、その子は、毎年毎年、助かりもしないのにそんな手術を受けなくちゃならないんだ」
「怒鳴りながら、彼は眼から泪が溢れてくるのを感じた。泪は眼ぶたから頬を伝わった。
「なぜ、罪もない子供がそんなに苦しまなくちゃ、ならないんだ」
妻は驚いたように後ずさりして、手をふった。
「興奮しちゃ駄目。どうしたのよ。あなたらしくもない」
「ああ」
うなずきながら、しかし明石の心からは何故という言葉は次から次へと浮かびあがってきた。なぜ、その子は毎年、苦しまなくてはならないのか。なぜ、あの人とその妻は死にうち勝つことはできなかったのか。なぜ、黄昏、煙は無意味に乳色の空に立ちのぼっていくのか。』
遠藤周作「満潮の時刻」
→死の恐怖とかの話
→遠藤周作「満潮の時刻」
「ふつうはああいう態度には出れないでしょうね。死を目前にしている病人に向って、幸せになれだの私に惚れられたのが運のつきだの、そういった台詞は通常の感性のもち主なら到底口に出せないことであるのでしょう。一歩まちがえれば無神経のそしりを受けて然るべきでしょうからね。ミズキの強さというのは生来的なものなのでしょう。ああはふつう行かないことよ。」
「ミズキの言葉は少し自己中心的に展開してるきらいがあることは否めないとはいえるから、かな。‥ここはとてもむずかしい部分なのだけど、本作が一貫してとりあげてるテーマのひとつには、人は死の恐怖を如何にして乗り越えられるのか?といったものが措定されてるとはいえることだと思う。そして今回のエピソードではこれに対し、あなたはまだ生きてるんだから死ぬさいごの寸前まで生きなさい。でも私が傍にいてあなたをこのうえないほど幸せにしてみせるから。という言葉でもって、ひとつの回答を示しえたとしてるんだよね。それで、私はこれを率直にいうなら、何をいってるのかよくわからないな、と感じてる。もちろん死に対して愛を向わせるというのは常套手段であるのだろし、また絶望する人にとって自分を見捨てることない他者の存在が巨大な意味を帯びるであろうことは、まず疑えない事実だと思う。‥でも、何かな、死とはもっと無感動で、そして寒い世界だ。それはまともに考えようとするなら発狂するほかない、恐怖だ。そして現代の私たちは死について何ごとか思考することを、まずもって意味のないこととして棄却してるのが、暗黙裡の社会のルールだと私は思う。死について考えつづけることはある意味オカルティックでさえあって、また健全な常識人は死をことさら問題にとりあげたりはまずしない。でも、いつかみんな死ぬという事実は、やっぱりどこか滑稽なのじゃないかな。そしてそういった疑問に囚われたとき、死の無間の奥底に沈んでくような恐怖に憑かれたとき、人は果してどうなっちゃうのか。愛は、それを引っぱれるのか。私にはまだわかんない。」
「死の恐怖の問題は、ま、ね、考え出すとふつう気が狂うものよ。だから、ま、現代人が死を常に他者の風景として流し、そして死後の世界なんてあるわけないでしょうと一笑に付す態度というものも、一面からいえば死の恐怖からの逃避でしかないともいえるのよ。たとえば死後の世界なんてないと人は思っているでしょう。そしてまた自分が死んで消えたあともこの世界は存続している、つづいていくと想定してるのが現代社会でしょう。しかし、どちらも「私」が観測できないという点においては、どちらも滑稽な顔をしているのよ。もちろんふだんの生活で死について考えないでもべつに困らない。がしかし人生の不条理は、死の恐怖をときおりもたらすことを止めることはない。そしてその恐怖に囚われたとき、世界はどのような意味を帯びて個人に迫るのか。ま、はてさてね。考えすぎるとどうしようもない問題ではある、か。」
『「帰りがけに、例の坊やにあったわ」
「例の坊や?」
「いつか話してあげたでしょう。人工肛門を作った可哀想な坊やよ」
「ああ……」
「一応、退院するんですって。付添さんがこちらが訊ねもしないのに教えてくれたのよ。また来年、入院して手術するんですって」
妻は別に悪気もなく今、自分が耳にしたことを明石に報告しただけにちがいなかった。しかし突然、彼は胸のそこから、言いようのない烈しい憤りに捉えられた。それは憤りという以上に、自分でも制禦できぬ感情だった。
「そんな馬鹿な。なぜ、その子は、毎年毎年、助かりもしないのにそんな手術を受けなくちゃならないんだ」
「怒鳴りながら、彼は眼から泪が溢れてくるのを感じた。泪は眼ぶたから頬を伝わった。
「なぜ、罪もない子供がそんなに苦しまなくちゃ、ならないんだ」
妻は驚いたように後ずさりして、手をふった。
「興奮しちゃ駄目。どうしたのよ。あなたらしくもない」
「ああ」
うなずきながら、しかし明石の心からは何故という言葉は次から次へと浮かびあがってきた。なぜ、その子は毎年、苦しまなくてはならないのか。なぜ、あの人とその妻は死にうち勝つことはできなかったのか。なぜ、黄昏、煙は無意味に乳色の空に立ちのぼっていくのか。』
遠藤周作「満潮の時刻」
→死の恐怖とかの話
→遠藤周作「満潮の時刻」