CLANNAD ~AFTER STORY~ 第12話「突然の出来事」
2008/12/20/Sat
「こういう問題はむずかしいな、と思う。今回のお話に係らず、家庭が崩壊の憂目をみるという場合はいろいろあって、たとえば浮気とか(→ちょっと微妙だけど浮気の問題についての話)生まれた子が知的障害とか(→とある町道場)自殺もあるし(→ある過去の風景のなかで)自閉症の問題もかんたんでない(→自閉症に関して思いだすこと)。私はよくわかんないけど、こういった問題の現場に係る機会が何回かかつてあって、そしてそういった場面で得た実感があるだけに今回のクラナドのエピソードが何をいいたいかってそのメッセージ性について思うところも、たぶんそういった世間の事情をぜんぜん見聞したことない人とは、少なからずちがうものあるのじゃないかなって思うかな。もちろん私はここで、そういった不幸があることを、またそういった不幸を近くで他者として遭遇することに、何等か意味や優越感を得たいってわけでまったくない。ただ思うのは、こういった事例というのは少し長じて世間を見渡すなら‥それが人たちが生活する地域って場でさえあるならば‥まちがいなく発見できる範囲にあるだろう、ごく身近な出来事であることは疑えないだろうってことで、障害者も近親の人が不幸に遭った人も、少し社会を観察すればかんたんに接することのできる距離圏にある事柄なのだよね。それはべつな言い方をすれば、不幸な人は多いということでもあって、そしてふつうに不幸は偏在してるって事実でもある。もちろん、その不幸の只中にある人の内面は、これは一概にはいえない暗さと複雑さがあるのだけど。」
「不幸が平凡にあるということは、なかなかどうして通常あることだけに、なんとも表立って殊更主張することでもないのでしょうね。そして世間にはそういった不幸にまつわる悲しみや呪詛めいた思いがさまざまにあるということを知れば知るほど、人は社会に純真なものを期待しなくなるし、それはべつな見方をするなら、擦り切れるとでもいう現象なのかしれないかしら。世人が他者の不幸にそれほど物事いわないのも、それ相応の理由はあるものである、か。世知辛いことね。」
「朋也がお父さんのことをゆるせないっていう気持も、だからわからないわけでないとはいえちゃうから、何か切ないね。朋也のお父さんのように家庭をぼろぼろにさせちゃう‥それが故意であれそうでなかったであれ、結果として破綻がそこに認められるならお父さんの意志はあまり問題とされるに足らない。それが今の朋也では‥事態が起ったとして、そして明白な責があろうと思われる肉親が身近に立っているのなら、その人に対して激昂してしまう態度というのを責めることは、ふつう他人にゆるされることでないなって、私は思うし、またほかの人もそうつよいことはいえなくなっちゃうことでないかな。せいぜい世間って暗幕の下で陰口をいうくらいで、面と向って叱責なんて、とてもできない、できるわけない。なぜなら家族の、それもとりわけ親子の間柄の問題は、ひたすら錯雑とした微妙な陰影があるものであり、また人は自己の感情というものに引きずられる性質の存在であることはどうやったって否定できない事実であろうから、父親を断罪しようとする朋也に慈悲を徒に求めることが、血も涙もない無関係な他者の無責任な放言であることは、いうまでないほど当然のことであるのだよね。それだから朋也は泣き崩れるのだろし、彼の負った孤独のつらさというものは、基本的にだれかが代替してやれることも、また肩代わりできる類のものでありえない。‥親がああいう姿をさらすというのは、とてもとても、むずかしいよね。ある意味、両親が実はただの人だったという事実を直視させられる瞬間ほど、人にとってたまらないつらさがある意味性というのもないのでないかな。たぶん、そういった暗さを感じちゃう人の一群に、朋也は分類されるのだろうから、なおさらかな。」
「親がただの人である、か。なんというか家族の問題というのは実にいいにくいものよね。それというのも家族というのはその個人の生まれにすべてが起因するものであるからで、個人の主体的な意志や選択は、家族がもたらす本質的な問題には決定的に無関係なのよね。つまりただ私がそこに生まれたということが家族にまつわるつらさの原因のすべてであり、それはある意味人に運命という言葉で以ってほか、納得できない類の事情であるのでしょう。不幸というものは外部事情で定義できるものであるでしょうけど、でも苦しいのはその外部で否応なく変化させられる個人の内面であるのだから、孤独は強烈なまでに意識される、か。なぜならその内面は、世間のだれもが顧みないものであるからで、それは他者の孤独を知ることは何人にも不可能事だという事態を破れない限り、どうしようもないことでしょうからね。」
「でも、それだからこそ、人は孤独であっちゃいけない、のかな。たぶん遠藤習作はそういうだろし(→遠藤周作「愛情セミナー」)、またクラナドって作品も同じことを伝えようとしてるにちがいないかなって、私は思う。そうというのも、今回、朋也と渚が婚約したよね。つまり家族になった。それは二人が、家族のつらさをようやく共同で乗り越えようって決意する契機として働くからなんだ。‥恋愛と結婚ははっきりちがう。その内実をこれからこの作品が描いてくれると、私はうれしいな。その手の本質を穿つ文学は、現代あんまり見受けられないくらいだもの。臆せず挑戦して、さあ描いてみせて。私は楽しみにしてるから。」
「現代文学にあまり期待できない古典的な家族の構図の問題、か。ま、それをアニメに見出すというのが実に現代という感じで笑っていいのかどうか悩む部分かしら。しかしとりあえず、ここからでしょうね、この作品は。重苦しい話題で気楽に感想もむずかしいけれど、しかし見届けてみようかしら。はてさて、どこまで生活に実地に立つ人間像を描出できるものか、期待させてもらうとしましょうか。」
→救いについての意味あい 生と死の混淆
「不幸が平凡にあるということは、なかなかどうして通常あることだけに、なんとも表立って殊更主張することでもないのでしょうね。そして世間にはそういった不幸にまつわる悲しみや呪詛めいた思いがさまざまにあるということを知れば知るほど、人は社会に純真なものを期待しなくなるし、それはべつな見方をするなら、擦り切れるとでもいう現象なのかしれないかしら。世人が他者の不幸にそれほど物事いわないのも、それ相応の理由はあるものである、か。世知辛いことね。」
「朋也がお父さんのことをゆるせないっていう気持も、だからわからないわけでないとはいえちゃうから、何か切ないね。朋也のお父さんのように家庭をぼろぼろにさせちゃう‥それが故意であれそうでなかったであれ、結果として破綻がそこに認められるならお父さんの意志はあまり問題とされるに足らない。それが今の朋也では‥事態が起ったとして、そして明白な責があろうと思われる肉親が身近に立っているのなら、その人に対して激昂してしまう態度というのを責めることは、ふつう他人にゆるされることでないなって、私は思うし、またほかの人もそうつよいことはいえなくなっちゃうことでないかな。せいぜい世間って暗幕の下で陰口をいうくらいで、面と向って叱責なんて、とてもできない、できるわけない。なぜなら家族の、それもとりわけ親子の間柄の問題は、ひたすら錯雑とした微妙な陰影があるものであり、また人は自己の感情というものに引きずられる性質の存在であることはどうやったって否定できない事実であろうから、父親を断罪しようとする朋也に慈悲を徒に求めることが、血も涙もない無関係な他者の無責任な放言であることは、いうまでないほど当然のことであるのだよね。それだから朋也は泣き崩れるのだろし、彼の負った孤独のつらさというものは、基本的にだれかが代替してやれることも、また肩代わりできる類のものでありえない。‥親がああいう姿をさらすというのは、とてもとても、むずかしいよね。ある意味、両親が実はただの人だったという事実を直視させられる瞬間ほど、人にとってたまらないつらさがある意味性というのもないのでないかな。たぶん、そういった暗さを感じちゃう人の一群に、朋也は分類されるのだろうから、なおさらかな。」
「親がただの人である、か。なんというか家族の問題というのは実にいいにくいものよね。それというのも家族というのはその個人の生まれにすべてが起因するものであるからで、個人の主体的な意志や選択は、家族がもたらす本質的な問題には決定的に無関係なのよね。つまりただ私がそこに生まれたということが家族にまつわるつらさの原因のすべてであり、それはある意味人に運命という言葉で以ってほか、納得できない類の事情であるのでしょう。不幸というものは外部事情で定義できるものであるでしょうけど、でも苦しいのはその外部で否応なく変化させられる個人の内面であるのだから、孤独は強烈なまでに意識される、か。なぜならその内面は、世間のだれもが顧みないものであるからで、それは他者の孤独を知ることは何人にも不可能事だという事態を破れない限り、どうしようもないことでしょうからね。」
「でも、それだからこそ、人は孤独であっちゃいけない、のかな。たぶん遠藤習作はそういうだろし(→遠藤周作「愛情セミナー」)、またクラナドって作品も同じことを伝えようとしてるにちがいないかなって、私は思う。そうというのも、今回、朋也と渚が婚約したよね。つまり家族になった。それは二人が、家族のつらさをようやく共同で乗り越えようって決意する契機として働くからなんだ。‥恋愛と結婚ははっきりちがう。その内実をこれからこの作品が描いてくれると、私はうれしいな。その手の本質を穿つ文学は、現代あんまり見受けられないくらいだもの。臆せず挑戦して、さあ描いてみせて。私は楽しみにしてるから。」
「現代文学にあまり期待できない古典的な家族の構図の問題、か。ま、それをアニメに見出すというのが実に現代という感じで笑っていいのかどうか悩む部分かしら。しかしとりあえず、ここからでしょうね、この作品は。重苦しい話題で気楽に感想もむずかしいけれど、しかし見届けてみようかしら。はてさて、どこまで生活に実地に立つ人間像を描出できるものか、期待させてもらうとしましょうか。」
→救いについての意味あい 生と死の混淆