ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
2009/01/09/Fri
「16世紀に起ったドイツ農民戦争に材をとったサルトルの戯曲大作として有名な本書は、当時の好戦的で悪名高かった騎士のひとりであるゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンを主人公に据え、善と悪の問題をサルトルらしい弁証的で執拗な論理的構成の物語として展開してく。私生児として幼いころをすごしたゲッツは、その心の憶測に拭いきれない劣等感と世間に対する憎悪を抱いてたのだけど、弱者の側に立ってともにその辛酸を舐め、そのために教会から追放されることになっちゃう破戒僧ハインリッヒと出会うことによって、さらに農民のリーダーナスチや娼婦カテリーナの存在の果す役割のめぐり合わせが伴って、ゲッツは悪の無益さに気づき、これから善に生きることを決意する。そしてまずその第一歩としてゲッツは私有財産の廃止や階級的差別の撤廃を実現するために、共産的な理想のもとに組織される無抵抗主義を掲げた共同体の設立を図るのだけど、その試みは当時興りつつあった農民蜂起の風潮のために、村民の殺戮という最悪の形をもって、ゲッツの善意を極端にまで否定することになる。さらにそれが引き金となって、農民たちの暴動は全国各地に広まってくのだけど、その有様を眺めるゲッツはみずからの善意のための行動からはじまったこの連鎖が、ひたすらこの世にこれほどないであろうというほどの悪意の実現という形でもってつづいてくのに、ただ自分の浅はかさと神の残酷さ、またはその不在を自覚する。ゲッツという男の善への意志なんて、塵のようなものだということを証明する現実に向って、ゲッツは慟哭する。」
「ニヒリズムのために悪業を重ねてきた騎士が、ある運命の機会によって善へと立ち戻ろうとするのだけれど、その善意から発した行動は自分が悪をやってきたとき以上の災厄を生むといった皮肉を呈することとなるのであり、それはすなわち神の存在への疑惑へとつながっていく、か。歴史の想像もできないほどの悲劇を、サルトルが善と悪といった倫理的なテーマにおいて組み立てたのがこの物語ということになるのでしょうね。ゲッツは愛を為そうとしたが、愛の実践とは果して何か? 浅慮な意図から出た善意ほど、人を害うものもまたないのかしら。」
『おれ一人だよ、坊主、おまえのいうとおりだ。おれ一人だ。おれは嘆願した。しるしをもとめた、天に言葉をおくった、なんの答えもない。天にはおれの名だって知られておらぬ。いつもいつも、おれは自分が神の目に何でありうるかを、心に問うていた。いまやっと答えがわかった――無、だ。神にはおれなど見えぬ、おれの声など聞えぬ、おれなどという人間は知られておらぬ。おれたちの頭上のあの虚空がおまえには見えるかい? あれが神だ。扉のあの割れ目が見えるか、あれが神だ。地にあいたあの穴が見えるか? あれもまた神だ。沈黙が神だ。不在が神だ。神は、人間の孤独だ。ただおれがあるのみだったのだ。おれ一人で悪を決定した。おれ一人で善を発案した。いんちきをしたのはおれ、奇蹟をやったのもおれ、今日おれを裁くのはおれ、おれの罪をゆるしうるのもただおれ一人だ。おれ、つまり人間だ。もし神が存在するなら、人間は虚無だ。もし人間が存在するならば……』
ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
「神の沈黙に接したゲッツは大地のしずけさを見とめ、そして世界にはただ地上あるのみでそこに天国も地獄も介在する余地のないといった、ただ自分ひとりの存在が私には観取されるのみといった、孤独の自覚に至りつく。このゲッツの嘆きの意味と、その空虚な渇いた感覚というのは、たぶん非キリスト教徒としての日本人にはわかりづらいのじゃないかな。もちろん信仰のない私にも、ゲッツの臓腑をえぐるような叫びの悲しみの本質というのは、わかんない。それをわかるというのは知的な欺瞞だな、と思う。ただ私はこの物語が伝える悲劇が、世界には事欠かなかったであろう時代の痛みの感触としておぼえられるだけであって、善と悪の倫理の世上での実践の困難さ、善と悪の不可分さとそこから来る人間の行為の正しさの見分けがたさを、ふかく考えるだけかな。‥でも、そう、忘れちゃいけないのは、これは神を問題にした作品だということで、信心のない私にそこに向うのにはある距離があるということは、私は認めておかなきゃいけないと思う。とくにルターの出現によって動揺してた当時のドイツを思うなら、なおさら。‥神の存在がぼんやりと、私がこの作品の深奥に近づくのを妨げてる。でもそれは、しかたないことであるのかな。だって私は、神の問題に切り詰められて問われたことはないのだから。そこを知的に装飾してごまかすのは、たぶん、いけない。」
「まったくこういったキリスト教の問題というものは、身内に神と倫理の問題の感覚が染み渡っていなければわかるものではありえないのでしょう。ま、だからドストエフスキーもニーチェもサルトルもバタイユもロレンスも、非キリスト者には用のない存在だといってももしかしたら過言ではないのかしれないけれど、日本の知的な雰囲気というかインテリは、そこらを都合よく閑却してしまうのかもしれないかしらね。ま、はてさてというのも嘆息でしょうが。どうかしらね。」
『大地の臭気は星までとどく。』
ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
「ニヒリズムのために悪業を重ねてきた騎士が、ある運命の機会によって善へと立ち戻ろうとするのだけれど、その善意から発した行動は自分が悪をやってきたとき以上の災厄を生むといった皮肉を呈することとなるのであり、それはすなわち神の存在への疑惑へとつながっていく、か。歴史の想像もできないほどの悲劇を、サルトルが善と悪といった倫理的なテーマにおいて組み立てたのがこの物語ということになるのでしょうね。ゲッツは愛を為そうとしたが、愛の実践とは果して何か? 浅慮な意図から出た善意ほど、人を害うものもまたないのかしら。」
『おれ一人だよ、坊主、おまえのいうとおりだ。おれ一人だ。おれは嘆願した。しるしをもとめた、天に言葉をおくった、なんの答えもない。天にはおれの名だって知られておらぬ。いつもいつも、おれは自分が神の目に何でありうるかを、心に問うていた。いまやっと答えがわかった――無、だ。神にはおれなど見えぬ、おれの声など聞えぬ、おれなどという人間は知られておらぬ。おれたちの頭上のあの虚空がおまえには見えるかい? あれが神だ。扉のあの割れ目が見えるか、あれが神だ。地にあいたあの穴が見えるか? あれもまた神だ。沈黙が神だ。不在が神だ。神は、人間の孤独だ。ただおれがあるのみだったのだ。おれ一人で悪を決定した。おれ一人で善を発案した。いんちきをしたのはおれ、奇蹟をやったのもおれ、今日おれを裁くのはおれ、おれの罪をゆるしうるのもただおれ一人だ。おれ、つまり人間だ。もし神が存在するなら、人間は虚無だ。もし人間が存在するならば……』
ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
「神の沈黙に接したゲッツは大地のしずけさを見とめ、そして世界にはただ地上あるのみでそこに天国も地獄も介在する余地のないといった、ただ自分ひとりの存在が私には観取されるのみといった、孤独の自覚に至りつく。このゲッツの嘆きの意味と、その空虚な渇いた感覚というのは、たぶん非キリスト教徒としての日本人にはわかりづらいのじゃないかな。もちろん信仰のない私にも、ゲッツの臓腑をえぐるような叫びの悲しみの本質というのは、わかんない。それをわかるというのは知的な欺瞞だな、と思う。ただ私はこの物語が伝える悲劇が、世界には事欠かなかったであろう時代の痛みの感触としておぼえられるだけであって、善と悪の倫理の世上での実践の困難さ、善と悪の不可分さとそこから来る人間の行為の正しさの見分けがたさを、ふかく考えるだけかな。‥でも、そう、忘れちゃいけないのは、これは神を問題にした作品だということで、信心のない私にそこに向うのにはある距離があるということは、私は認めておかなきゃいけないと思う。とくにルターの出現によって動揺してた当時のドイツを思うなら、なおさら。‥神の存在がぼんやりと、私がこの作品の深奥に近づくのを妨げてる。でもそれは、しかたないことであるのかな。だって私は、神の問題に切り詰められて問われたことはないのだから。そこを知的に装飾してごまかすのは、たぶん、いけない。」
「まったくこういったキリスト教の問題というものは、身内に神と倫理の問題の感覚が染み渡っていなければわかるものではありえないのでしょう。ま、だからドストエフスキーもニーチェもサルトルもバタイユもロレンスも、非キリスト者には用のない存在だといってももしかしたら過言ではないのかしれないけれど、日本の知的な雰囲気というかインテリは、そこらを都合よく閑却してしまうのかもしれないかしらね。ま、はてさてというのも嘆息でしょうが。どうかしらね。」
『大地の臭気は星までとどく。』
ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
