WHITE ALBUM 第二頁「ずっと前から仕組まれてた、そんな出会いって、信じる?」
2009/01/13/Tue
「これはおもしろい。技巧がかった各場面の繊細な象徴性や、登場人物たちをアニメ的なキャラ造詣によって個性を際立たせるのでなくて、その各々の欲求とそこから生じる対世間的な媚びによってそれぞれの立ち位置を明確に刻んでくていねいな手法は、古典的なドラマの基本に忠実であるだけに、製作陣の自力の高さがうかがわれる完成度になってると思う。この男女関係の鬱屈した雰囲気といい、回顧的な情緒を画面全体に湛えてる色調といい、私にはどこか本作には吉行淳之介の小説を読んでるような感覚を感じとってしまうかな。とくに主人公の冬弥がみずからの性欲を御しきれてなくて、自分の欲望とさらに女性たちからの欲望のあいだで不安定な自己をさらけ出しちゃってる有様は、非常に生々しい問題を提出してるみたいに思えて、興味ふかいかなって思う。冬弥があんまり視聴者には人気ないだろうっていうのもわかるかな。こういうよくあるだろう性的に爛れてしまう人間像というのは、見てて決して気持のいいものでないものね。でも彼のような人は、さみしい人間の心の間隙に、ひっそりと潜んじゃうある個性の発露がある。だから本作でも冬弥の周りにはきわめて人間的な情動の渦が形成されちゃうわけだけど、どこまで人間心理の泥濘さに切りこめるかは見ものかな。」
「自身の性欲の強烈さに上手く対応できないタイプかしらね、冬弥は。そしてまた女性から向けられる好意の視線に適切に応えられてもなさそうだし、それは彼がはるかの誘いや理奈からのアプローチに積極的に肯定も否定もできずに流動的に受け答えしてしまっているところからも推測できることでしょうし、あまつさえ恋人のはずの由綺の現状をまったく知れてないことは致命的ともいえるのでしょう。冬弥のようなタイプが、海千山千の女性の欲求充足のための傀儡にされるというのは、実際ありそうな話ね。ま、しかし、それが彼にとって幸福かどうかはまた別問題なのでしょうけど。」
「冬弥はまた女性に対して夢を見ずに現実だけを直視できる性格でもないだろうから、かな。これはとくに男性に限ったことでもないかなとは思うけど、人は他者と接する際に‥とくにそれが色恋沙汰のときは‥それが自分の勝手な思いこみであるのだろけど、でも一定の自分の理想や幻影を相手に重ねちゃう傾向が往々にしてあるもので、それはまた一種の自己愛の変型でもあるから、恋愛に夢みちゃう人の性というのはなかなか免れないものではあるのかなって気がする。それは孤独な自己がどこかに自分のことをほんとに理解して、そして自分を救済してくれる王子さまないしお姫さまを待望しちゃう心理と同型のものといってもよくて、ただだけどそれは冷徹な現実の前には彼ないし彼女の理想の独りよがりにすぎないといった形において滅ぼされるものであるから、そこに性的な問題と恋愛の心の問題の衝突のむずかしさがあるとはいえるかな。だって恋愛は精神的な関係性の構築を本質として企図するけれど、でも関係なく性欲は動物的な強力さをもって、意識のうえにはあるものね。この問題の解決は、人が思う以上には容易には解決できないもので、この作品がどんな展開を与えるかは興味あることかなって私は思う。愛情の幻想と性欲の関係は、人間存在の根源に係るものであるのだろうから、この作品が描こうとするものは重いものがあるのはたぶんまちがいないのだよね。どんななるか、期待してみてこかな。」
「性欲はきわめて私的な問題に括られるものなのでしょうが、しかし恋人といった恋愛の問題は、それとはべつに社会的な次元においても意味をもつものであるから、そこらで愛の単純な幻想といったものは否定される運命にあるとはいえるのでしょうね。これはつまり言い方を変えれば、童貞ないし処女の抱く非現実的な愛情への過度の期待といったものになるのでしょうが、なかなかどうしてここらは解決がむずかしいのよね。吉行淳之介にしてから、あれだけ女性経験が豊富だった人間がその心の本質は子どものような純潔さがあったようにも思えるし、性の問題は隠微で微妙でわからないかしら。はてさて、この作品はどう描くのでしょうね。ま、期待してみることにしましょうか。」
→吉行淳之介「にせドンファン」
「自身の性欲の強烈さに上手く対応できないタイプかしらね、冬弥は。そしてまた女性から向けられる好意の視線に適切に応えられてもなさそうだし、それは彼がはるかの誘いや理奈からのアプローチに積極的に肯定も否定もできずに流動的に受け答えしてしまっているところからも推測できることでしょうし、あまつさえ恋人のはずの由綺の現状をまったく知れてないことは致命的ともいえるのでしょう。冬弥のようなタイプが、海千山千の女性の欲求充足のための傀儡にされるというのは、実際ありそうな話ね。ま、しかし、それが彼にとって幸福かどうかはまた別問題なのでしょうけど。」
「冬弥はまた女性に対して夢を見ずに現実だけを直視できる性格でもないだろうから、かな。これはとくに男性に限ったことでもないかなとは思うけど、人は他者と接する際に‥とくにそれが色恋沙汰のときは‥それが自分の勝手な思いこみであるのだろけど、でも一定の自分の理想や幻影を相手に重ねちゃう傾向が往々にしてあるもので、それはまた一種の自己愛の変型でもあるから、恋愛に夢みちゃう人の性というのはなかなか免れないものではあるのかなって気がする。それは孤独な自己がどこかに自分のことをほんとに理解して、そして自分を救済してくれる王子さまないしお姫さまを待望しちゃう心理と同型のものといってもよくて、ただだけどそれは冷徹な現実の前には彼ないし彼女の理想の独りよがりにすぎないといった形において滅ぼされるものであるから、そこに性的な問題と恋愛の心の問題の衝突のむずかしさがあるとはいえるかな。だって恋愛は精神的な関係性の構築を本質として企図するけれど、でも関係なく性欲は動物的な強力さをもって、意識のうえにはあるものね。この問題の解決は、人が思う以上には容易には解決できないもので、この作品がどんな展開を与えるかは興味あることかなって私は思う。愛情の幻想と性欲の関係は、人間存在の根源に係るものであるのだろうから、この作品が描こうとするものは重いものがあるのはたぶんまちがいないのだよね。どんななるか、期待してみてこかな。」
「性欲はきわめて私的な問題に括られるものなのでしょうが、しかし恋人といった恋愛の問題は、それとはべつに社会的な次元においても意味をもつものであるから、そこらで愛の単純な幻想といったものは否定される運命にあるとはいえるのでしょうね。これはつまり言い方を変えれば、童貞ないし処女の抱く非現実的な愛情への過度の期待といったものになるのでしょうが、なかなかどうしてここらは解決がむずかしいのよね。吉行淳之介にしてから、あれだけ女性経験が豊富だった人間がその心の本質は子どものような純潔さがあったようにも思えるし、性の問題は隠微で微妙でわからないかしら。はてさて、この作品はどう描くのでしょうね。ま、期待してみることにしましょうか。」
→吉行淳之介「にせドンファン」
