遠藤周作「銃と十字架」
2009/01/13/Tue
「日本のマルコ・ポーロとも称されるほど波乱万丈の生涯を劇的に送ったペトロ岐部は、十六世紀から十七世紀にかけての信長から秀吉、そして家康の政権が樹立されるまでの文字通り動乱の世に生を受けた人であって、当時の現代では考えられないくらい過酷な状況下にあってなおマカオからゴア、インドからシリア砂漠を横断してエルサレムに至りついて、さらにそこからローマにまで及んだ日本人としては破格の見聞を得た人だった。もちろん岐部は単なる冒険心からそんな危険きわまりない旅程に足を運んだわけでなくて、そこには幼少期、有馬の神学校で学び生涯をキリスト教に捧げることを決意しながら司祭になる術を外国宣教師たちの日本人に対する偏見と、また秀吉から家康になってきびしさを増してく禁教令によって追われて、そのため単身ローマへの夢を抱きつづけた孤高の人間の姿が浮彫りになってくる。岐部は迫害の嵐から一端非難して、そこからいつの日か神父の位を授けられてから隠れ潜む日本の信者たちの援けとならんとみずからの意を決するのだよね。でもそこには禁教令の布かれた日本から、理由はどうあれ、居残った信者たちを見捨てて逃げたって負い目が彼には免れなく背負わされてあったのであり、その後ろめたさが岐部をして世界を横断する大冒険の活力と、数十年後に日本に戻ってくる決断の決め手になったことは疑えないかな。当時の状況においてキリスト者としてあろうとすることは、死の覚悟を受け容れる選択にほかならなかったのだから、岐部のローマやエルサレム巡礼は、死の準備をする段階にほかならなかった。」
「遠藤周作の作品のなかでキリスト教迫害の模様を扱ったものでとくに著名なのは「沈黙」なのでしょうが、本書は「沈黙」執筆から実に十三年後に書かれたもので、遠藤の迫害下におけるキリスト者へ向ける視線も、相当の変化があると見なければならないのでしょうね。「沈黙」においては最終的に棄教するロドリゴ神父を描いた遠藤が、本作では殉教するペトロ岐部を主人公に据えている。強者と弱者、弱者に寄り添うイエスを好んで描いた遠藤が、ここでは強者の視点からのイエスを題材として取り上げているのよね。ここらの相違は、なかなか興味深いかしら。」
「小説的なドラマの盛り上げに敏感なタッチだった「沈黙」と比べても、「銃と十字架」はより史実に忠実にあろうとした、全体的に落ちついた筆致になってることも指摘しておいていいことと思う。本作では遠藤は多数の文献を援用しながら、当時ペトロ岐部がどんな心中になったのかなってことを、できる限り客観的に描き出そうと試みてるのであり、そこには脚色されたドラマのおもしろさは欠けるけど‥といっても、岐部の実人生のあらましがそもそも事実は小説より奇なりを地で行く慌しさにあふれてるから、よけいな書き足しは無用だったということもあるのだろうけど、ね‥でもそこの事情には、遠藤がペトロ岐部といった困難な時代に決然とした勇気を示した人物に近づきたいって思いがつよく見てとれるから、本作品を読む人は、遠藤の関心のあり方の衒わない実相をうかがうことができると思う。‥迫害と棄教。この二つに照らし出される人間存在の心理の動きと、また苦痛と悲しみに敗れ去りやるせない思いののちに死ぬ、人たちの記録が後世の私たちに投げかける問題意識は、いったいどんなものがあるのかなって、私は思うかな。本書で遠藤がものしずかに語る悲劇は、悲しみに引き裂かれる人生の境涯のたしかな記憶という点において、今の私たちにとっても決して無縁でない響きを与えてくれると思う。それは人生を懸けた対象によって、人生を喪失せしめるといった、人の夢とその願いの落着を示す物語にほかならないのだろうから。」
「迫害や棄教といっても、現代日本の大多数の人々にとってはあまりぴんと来ない題材ではあるのでしょうね。ただしかし、これは単なる自分の人生すべてを投げ打ってみずからの夢に希望を乗せた決断が、社会的状況と思想的潮流のために敗北するといった、現代でも起りうる、そして現に起っている悲劇のひとつの場合だとはいえるのでないかしら。もちろん当時の大迫害の状況にあった悲しみや悲劇は、現代ではそう身近にあるものでもないのでしょう。しかしこの当時の記録は、何かしらね、どうにもならない人生を生きるほかないある種の人間の運命の不合理さを、まざまざと教えてくれるものではあるのよ。この不合理に目を瞑っていていいのかしら。さて、どうもそうは行かないみたいなのよ。」
『いつ来てもこの廃墟は静かだった。訪れる人影もなかった。むかしここに小さな学校があり、こここそ日本人がはじめて西洋を知った場よだったとはほとんどの日本人は知らない。ここで学んだ者たちがその学んだことゆえに迫害され、殺されていったこともほとんどの日本人は知らない。ここで学んだ者たちのなかに我国最初のヨーロッパ留学生の何人かがいたことも、ほとんどの日本人は知らない。だからすべてが静かである。』
遠藤周作「銃と十字架」
遠藤周作「銃と十字架」
「遠藤周作の作品のなかでキリスト教迫害の模様を扱ったものでとくに著名なのは「沈黙」なのでしょうが、本書は「沈黙」執筆から実に十三年後に書かれたもので、遠藤の迫害下におけるキリスト者へ向ける視線も、相当の変化があると見なければならないのでしょうね。「沈黙」においては最終的に棄教するロドリゴ神父を描いた遠藤が、本作では殉教するペトロ岐部を主人公に据えている。強者と弱者、弱者に寄り添うイエスを好んで描いた遠藤が、ここでは強者の視点からのイエスを題材として取り上げているのよね。ここらの相違は、なかなか興味深いかしら。」
「小説的なドラマの盛り上げに敏感なタッチだった「沈黙」と比べても、「銃と十字架」はより史実に忠実にあろうとした、全体的に落ちついた筆致になってることも指摘しておいていいことと思う。本作では遠藤は多数の文献を援用しながら、当時ペトロ岐部がどんな心中になったのかなってことを、できる限り客観的に描き出そうと試みてるのであり、そこには脚色されたドラマのおもしろさは欠けるけど‥といっても、岐部の実人生のあらましがそもそも事実は小説より奇なりを地で行く慌しさにあふれてるから、よけいな書き足しは無用だったということもあるのだろうけど、ね‥でもそこの事情には、遠藤がペトロ岐部といった困難な時代に決然とした勇気を示した人物に近づきたいって思いがつよく見てとれるから、本作品を読む人は、遠藤の関心のあり方の衒わない実相をうかがうことができると思う。‥迫害と棄教。この二つに照らし出される人間存在の心理の動きと、また苦痛と悲しみに敗れ去りやるせない思いののちに死ぬ、人たちの記録が後世の私たちに投げかける問題意識は、いったいどんなものがあるのかなって、私は思うかな。本書で遠藤がものしずかに語る悲劇は、悲しみに引き裂かれる人生の境涯のたしかな記憶という点において、今の私たちにとっても決して無縁でない響きを与えてくれると思う。それは人生を懸けた対象によって、人生を喪失せしめるといった、人の夢とその願いの落着を示す物語にほかならないのだろうから。」
「迫害や棄教といっても、現代日本の大多数の人々にとってはあまりぴんと来ない題材ではあるのでしょうね。ただしかし、これは単なる自分の人生すべてを投げ打ってみずからの夢に希望を乗せた決断が、社会的状況と思想的潮流のために敗北するといった、現代でも起りうる、そして現に起っている悲劇のひとつの場合だとはいえるのでないかしら。もちろん当時の大迫害の状況にあった悲しみや悲劇は、現代ではそう身近にあるものでもないのでしょう。しかしこの当時の記録は、何かしらね、どうにもならない人生を生きるほかないある種の人間の運命の不合理さを、まざまざと教えてくれるものではあるのよ。この不合理に目を瞑っていていいのかしら。さて、どうもそうは行かないみたいなのよ。」
『いつ来てもこの廃墟は静かだった。訪れる人影もなかった。むかしここに小さな学校があり、こここそ日本人がはじめて西洋を知った場よだったとはほとんどの日本人は知らない。ここで学んだ者たちがその学んだことゆえに迫害され、殺されていったこともほとんどの日本人は知らない。ここで学んだ者たちのなかに我国最初のヨーロッパ留学生の何人かがいたことも、ほとんどの日本人は知らない。だからすべてが静かである。』
遠藤周作「銃と十字架」
遠藤周作「銃と十字架」
