遠藤周作「青い小さな葡萄」
2009/02/07/Sat
「物語はフランスのリヨンに留学している日本人青年である伊原が、とある機縁でドイツ人ハンツと出会い、彼を戦時中、救ったとされる少女パストルの行方をさぐるというもの。リヨンに第二次大戦終結後、はじめての日本人留学生として赴いたのが遠藤周作であることは遠藤文学を理解するうえでは欠かせない要素であって、本作品でも伊原という人物に若き遠藤自身の姿が投影されてることはすぐに理解されることと思う。伊原は常に霧と雨によって濡らされた町であるリヨンを彷徨しながら、当地の日本人に対する激しい蔑視‥戦争が終ってすぐのフランスであるのだから、そこでの差別感情の生々しさというのは、現代の私たちからはかんたんに察せないことであるかな。この作品では伊原がフランス人からは「印度支那人」と蔑称をよく受けることから、その時代の日本への感情を知ることができる‥と、そして伊原自身に激しく根づく黄色人であることのコンプレックスに、深刻なまでに懊悩してる。まず本書にふれて感じられることは何かなっていえば、それはこの私たち日本人が主人公伊原という人物に照応されて受けるであろうみずからが黄色人であることの、日本人であることの罪の意識であり、そしてそれは奇妙なまでの罪責感となって読者に掲示されてる本作のテーマのひとつであって、またそれは遠藤がふかく自覚してた自分が日本人であることへ嫌悪感であった。ここの事情の複雑な感情の陰影は、たぶん遠藤文学の核心にまで届いてる。」
「自分の黄色い肌に対する激しい嫌悪、か。もちろんこの意識は日本のなかに留まっている人々にとっては、理解することも共感することもできる類のものではないのでしょう。自分がただ日本人であり、そして黄色人であるからといって、それで悩むことは馬鹿馬鹿しいと教えているのが現代社会の教育といったものだからでしょうね。しかし遠藤が留学した当時は、日本は戦犯であり国際的にも敗残者の国であったのであり、そのなかただひとりヨーロッパに旅立った遠藤が、そしてその地で孤独には白人種の群のなかで立ち働いていた遠藤が、いったいどんな感情を抱いていたかは、はてさて、むずかしい問題なのでしょうね。現代とは状況が著しく異なるし、また日本が占める世界の位置も変わった。ただしかし、この遠藤の白人に対するコンプレックスは、おぞましいくらい、根深いものだった。」
『支那人じゃない。私は日本人です。人間は国籍を変えることはできない。だが、俺は今まで、たった一度だってあの日本に愛情を感じたことがあったろうか。日本にいた時から、俺は自分の国に無関心だった。あの戦争の時、空襲の夜、くたびれ果てた俺の唇が、日本尾ことを呟く時はいつも、こうだったのだ、「勝とうが、負けようが、もうどうでもいいことだ」あれは疲労で衰えた心のためだろうか、いやそうじゃない。戦争が終ってからも俺は日本のことを考える時、なぜか、ふしぎに雨にふりこめられた大きな沼沢地帯を想像するのだった。あそこではなにもが育たない植えられたものは、じめじめとした泥の中でその根を腐らせやがて衰えて死んでしまう。あそこではなにもが見えはしない。じめじめとした雨のなかですべてがやがてぼやけ、輪郭を失い、誤魔化されていくのだ。生気のない濁った色に変るのだ。
きいろという色はそういう色なんだ。こいつは白色のように、他の色と鮮やかに対立し、自分の存在を主張し距離をはっきりさせる色とはちがうんだ。影と光との対立も、厚さも深みもない色なんだ。』
遠藤周作「青い小さな葡萄」
「物語においてもうひとり重要な役割を果すのは、子どものころナチスの強制収容所にいたポーランド人クロスヴスキイであって、彼は収容所の気まぐれな、そして残虐な悪戯からせまい箱のなかに身を無理やり収められて数年をすごしたため、骨格の成長に異常を来し、年齢と相反しての小人という不具者になった経歴のもち主だった。クロスヴスキイは自分をそんな目に遭わした戦争と世界と、そして人間たちに底知れない恨みを燻らせてるのであり、そんな彼の心中は他者に対してニヒリスティックなやり切れない態度という形にいてしばしば表出する。でもだけど、この男がそれだけで済まされないふかい物語的な意味を担ってるのは、クロスヴスキイが心底にあってこの世界に対する絶望を、愛を求めながら愛を得られない、人間の愚かな悲劇に対しての無力さを一身に象徴してるからなのだよね。その意味で、この小人は本作のもうひとりの主人公ともいえるだろうし、また遠藤周作が語りたかった言葉を代弁してくれた、遠藤の側面のひとつでさえあったのかもしれない。」
「物語もまたクロスヴスキイの世界に対する絶望の証明という経路によって進行していくのだから、その立ち位置は非常に皮肉な面があるということはいえるのでしょうね。ドイツ人ハンツが救われたという女性スザンヌは、調べるにつれすでに死亡していることが判明し、その謎を解こうと追っていくと、彼女は抗独運動の内部分裂の騒乱に巻きこまれて虐殺されたことが判明するのだった。ここにおいてもまた戦争の悲惨と人間性のあさましい一面をとりあげようとする遠藤の関心の向き方の、ある意味徹底した部分がうかがわれるといえるのかしら。戦争で伊原はいわれなき負い目を背負い、ハンツは右腕とドイツ人という重荷を課され、クロスヴスキイは身体の畸形と黒く染め上がったニヒリズムを身内に蓄えてしまった。少し、尋常でないくらい暗いのよね、この作品は。」
『ここは今、皆、雪に埋もれて、怖ろしいほど静かじゃありませんか。ニューエンベルグの収容所も今ごろはこの通りですか。拷問室、ガス部屋、絞首台も、雪に消えてしまうわけですか。わかっていますよ。そうでなくちゃ、世の中はうまく運びませんからねえ。死んだ者は黙らせておくに限りますよ。だが、ハンツ君、もしガス部屋や絞首台で殺された幾十万人の人間たちが、この闇の中に集まって、叫びはじめたら、どうしますかね。彼等はあの収容所で受けた恐怖や拷問や死を償ってくれ、納得のいくまで償ってくれと叫んでいるんですぜ。
生き残った連中は戦争裁判や民主主義や未来の平和ですべてを始末したつもりか知らないが、死んだ人間の苦しみはそれだけじゃ、もとへ戻らない。』
遠藤周作「青い小さな葡萄」
「遠藤はこの問いかけに対して、明確な解答は何も与えてない。そしてこのクロスヴスキイの悲痛な叫び、疑問は、遠藤を生涯縛ったであろう苦しみであったのだろうし、人間がこの世界の苦痛に出会ったとき抱かずにはられない困惑と絶望の嘆きが、遠藤の文学のすべてだったのじゃないかなって、私には思えるかな。そしてこの叫びに対して、常に沈黙してる神の存在の問題が、遠藤においては日本の隠れキリシタンの題材や生体実験に着手した医師の孤独にも言及させたのだろうし、世界の絶望を帯びた謎に向った人間の実存の苦しみが、遠藤が終始することになった文学的テーマであったって結論づけるのは、そう無理なことでないかなって私は思う。‥ただ、そう、遠藤は小説によって、書くことによってこの疑問に戦い挑んだ。そしてその戦闘の記録は遺された遠藤の作品によって私たちはうかがい知ることができるのだけど、でも何かな、私は、遠藤はこの戦いにけっきょく敗北したのだと思う。遠藤は負けた。そして遠藤の苦悩は、その作品を紐解く私の前に、煤煙のように立ち昇る。私はその煤に、心を黒く、汚される。」
「遠藤が少しほかの日本人作家と比べて毛色が異なっていると思わせられるのは、遠藤には何か心中に期するところがあった明白な罪の意識があったのではないかと考えさせられる部分なのよね。遠藤はその作品でよく罪に懊悩する人間を描くけれど、しかしそれら苦悩のあり方は遠藤という個人の根幹に潜んでいた陰影から来るものであった。遠藤は、果して何にそこまで負い目を感じていたのかしら? 何が遠藤の罪だったのかしら? それを考えるのは、さてこれからの課題でしょうね。遠藤の罪意識。もしかしたらそれは日本人の一群の人々には、共通したものでもあるのかしれないでしょうから。」
『一人になった伊原はふたたび雑沓のなかにはいっていった。ながい苦しかった四日間のうち、彼は同じような群集に幾度かぶつかった。粉雪のふるバール街を傘を斜めにさしてくたびれた表情で歩いていく人間の河。あの時、俺はその河に青い葡萄を求めるむなしさを感じていた。だが青い葡萄とは何処かにあるものではない。さがすものではない。創るものなのだろう。ハンツには逃れていく教会がある。が教会のない俺は創るしかないのだ。(何によって創るのだ)と彼は自分の小さなノートを思いだしながら考えた。(書くことか、その時、書くことはあのフォンスの闇の井戸も、犯すことのできない一つの世界を創ることだろう。それはスザンヌやすべての人間の運命に反抗するただ一つの路なのかもしれない)』
遠藤周作「青い小さな葡萄」
遠藤周作「青い小さな葡萄」
「自分の黄色い肌に対する激しい嫌悪、か。もちろんこの意識は日本のなかに留まっている人々にとっては、理解することも共感することもできる類のものではないのでしょう。自分がただ日本人であり、そして黄色人であるからといって、それで悩むことは馬鹿馬鹿しいと教えているのが現代社会の教育といったものだからでしょうね。しかし遠藤が留学した当時は、日本は戦犯であり国際的にも敗残者の国であったのであり、そのなかただひとりヨーロッパに旅立った遠藤が、そしてその地で孤独には白人種の群のなかで立ち働いていた遠藤が、いったいどんな感情を抱いていたかは、はてさて、むずかしい問題なのでしょうね。現代とは状況が著しく異なるし、また日本が占める世界の位置も変わった。ただしかし、この遠藤の白人に対するコンプレックスは、おぞましいくらい、根深いものだった。」
『支那人じゃない。私は日本人です。人間は国籍を変えることはできない。だが、俺は今まで、たった一度だってあの日本に愛情を感じたことがあったろうか。日本にいた時から、俺は自分の国に無関心だった。あの戦争の時、空襲の夜、くたびれ果てた俺の唇が、日本尾ことを呟く時はいつも、こうだったのだ、「勝とうが、負けようが、もうどうでもいいことだ」あれは疲労で衰えた心のためだろうか、いやそうじゃない。戦争が終ってからも俺は日本のことを考える時、なぜか、ふしぎに雨にふりこめられた大きな沼沢地帯を想像するのだった。あそこではなにもが育たない植えられたものは、じめじめとした泥の中でその根を腐らせやがて衰えて死んでしまう。あそこではなにもが見えはしない。じめじめとした雨のなかですべてがやがてぼやけ、輪郭を失い、誤魔化されていくのだ。生気のない濁った色に変るのだ。
きいろという色はそういう色なんだ。こいつは白色のように、他の色と鮮やかに対立し、自分の存在を主張し距離をはっきりさせる色とはちがうんだ。影と光との対立も、厚さも深みもない色なんだ。』
遠藤周作「青い小さな葡萄」
「物語においてもうひとり重要な役割を果すのは、子どものころナチスの強制収容所にいたポーランド人クロスヴスキイであって、彼は収容所の気まぐれな、そして残虐な悪戯からせまい箱のなかに身を無理やり収められて数年をすごしたため、骨格の成長に異常を来し、年齢と相反しての小人という不具者になった経歴のもち主だった。クロスヴスキイは自分をそんな目に遭わした戦争と世界と、そして人間たちに底知れない恨みを燻らせてるのであり、そんな彼の心中は他者に対してニヒリスティックなやり切れない態度という形にいてしばしば表出する。でもだけど、この男がそれだけで済まされないふかい物語的な意味を担ってるのは、クロスヴスキイが心底にあってこの世界に対する絶望を、愛を求めながら愛を得られない、人間の愚かな悲劇に対しての無力さを一身に象徴してるからなのだよね。その意味で、この小人は本作のもうひとりの主人公ともいえるだろうし、また遠藤周作が語りたかった言葉を代弁してくれた、遠藤の側面のひとつでさえあったのかもしれない。」
「物語もまたクロスヴスキイの世界に対する絶望の証明という経路によって進行していくのだから、その立ち位置は非常に皮肉な面があるということはいえるのでしょうね。ドイツ人ハンツが救われたという女性スザンヌは、調べるにつれすでに死亡していることが判明し、その謎を解こうと追っていくと、彼女は抗独運動の内部分裂の騒乱に巻きこまれて虐殺されたことが判明するのだった。ここにおいてもまた戦争の悲惨と人間性のあさましい一面をとりあげようとする遠藤の関心の向き方の、ある意味徹底した部分がうかがわれるといえるのかしら。戦争で伊原はいわれなき負い目を背負い、ハンツは右腕とドイツ人という重荷を課され、クロスヴスキイは身体の畸形と黒く染め上がったニヒリズムを身内に蓄えてしまった。少し、尋常でないくらい暗いのよね、この作品は。」
『ここは今、皆、雪に埋もれて、怖ろしいほど静かじゃありませんか。ニューエンベルグの収容所も今ごろはこの通りですか。拷問室、ガス部屋、絞首台も、雪に消えてしまうわけですか。わかっていますよ。そうでなくちゃ、世の中はうまく運びませんからねえ。死んだ者は黙らせておくに限りますよ。だが、ハンツ君、もしガス部屋や絞首台で殺された幾十万人の人間たちが、この闇の中に集まって、叫びはじめたら、どうしますかね。彼等はあの収容所で受けた恐怖や拷問や死を償ってくれ、納得のいくまで償ってくれと叫んでいるんですぜ。
生き残った連中は戦争裁判や民主主義や未来の平和ですべてを始末したつもりか知らないが、死んだ人間の苦しみはそれだけじゃ、もとへ戻らない。』
遠藤周作「青い小さな葡萄」
「遠藤はこの問いかけに対して、明確な解答は何も与えてない。そしてこのクロスヴスキイの悲痛な叫び、疑問は、遠藤を生涯縛ったであろう苦しみであったのだろうし、人間がこの世界の苦痛に出会ったとき抱かずにはられない困惑と絶望の嘆きが、遠藤の文学のすべてだったのじゃないかなって、私には思えるかな。そしてこの叫びに対して、常に沈黙してる神の存在の問題が、遠藤においては日本の隠れキリシタンの題材や生体実験に着手した医師の孤独にも言及させたのだろうし、世界の絶望を帯びた謎に向った人間の実存の苦しみが、遠藤が終始することになった文学的テーマであったって結論づけるのは、そう無理なことでないかなって私は思う。‥ただ、そう、遠藤は小説によって、書くことによってこの疑問に戦い挑んだ。そしてその戦闘の記録は遺された遠藤の作品によって私たちはうかがい知ることができるのだけど、でも何かな、私は、遠藤はこの戦いにけっきょく敗北したのだと思う。遠藤は負けた。そして遠藤の苦悩は、その作品を紐解く私の前に、煤煙のように立ち昇る。私はその煤に、心を黒く、汚される。」
「遠藤が少しほかの日本人作家と比べて毛色が異なっていると思わせられるのは、遠藤には何か心中に期するところがあった明白な罪の意識があったのではないかと考えさせられる部分なのよね。遠藤はその作品でよく罪に懊悩する人間を描くけれど、しかしそれら苦悩のあり方は遠藤という個人の根幹に潜んでいた陰影から来るものであった。遠藤は、果して何にそこまで負い目を感じていたのかしら? 何が遠藤の罪だったのかしら? それを考えるのは、さてこれからの課題でしょうね。遠藤の罪意識。もしかしたらそれは日本人の一群の人々には、共通したものでもあるのかしれないでしょうから。」
『一人になった伊原はふたたび雑沓のなかにはいっていった。ながい苦しかった四日間のうち、彼は同じような群集に幾度かぶつかった。粉雪のふるバール街を傘を斜めにさしてくたびれた表情で歩いていく人間の河。あの時、俺はその河に青い葡萄を求めるむなしさを感じていた。だが青い葡萄とは何処かにあるものではない。さがすものではない。創るものなのだろう。ハンツには逃れていく教会がある。が教会のない俺は創るしかないのだ。(何によって創るのだ)と彼は自分の小さなノートを思いだしながら考えた。(書くことか、その時、書くことはあのフォンスの闇の井戸も、犯すことのできない一つの世界を創ることだろう。それはスザンヌやすべての人間の運命に反抗するただ一つの路なのかもしれない)』
遠藤周作「青い小さな葡萄」
遠藤周作「青い小さな葡萄」