とらドラ! 第19話「聖夜祭」
2009/02/12/Thu
「大河が竜児への恋心に気づくというのがまず本エピソードの主眼であって、彼女の北村への感情はあこがれ以上の域を出ることはなくてそれに対して自分自身に実感としてつよい影響力をもってたのは身近すぎて見えなかった竜児であったことに大河がようやく目を開くのが、今回のお話のラストの静謐な悲しさに満ちた描写の意味だった。‥ここで亜美さんのいった「家族ごっこ」って言葉の真意が生きてくるわけだけど、竜児を除いた二人にはあるていどこの言葉の意味する危険性には自覚的であったのであり、殊にみのりんにおいてはそのために悩んでたのであって、大河もまた竜児をみのりんのもとに見送った際に‥それはつまり父母の仲をとりもつ賢こくてやさしい子どもの役割を忠実に果したときに‥家族ごっこの空しさは身体の芯から意識されたのだった。‥二人の少女に比べると、竜児が未だ目覚めてないのは、彼が少年ということもあってしかたないことではあるかなって思うけど、でも歯がゆいのは否めないかな。というのも、これはいうに少し躊躇しちゃうかもだけど、「家族ごっこ」ってつまり少年の「ハーレム願望」の裏表なんだよ。だから、竜児は気づけなかったんだよ。」
「実は竜児は大河とも実乃梨ともそして亜美とも仲よくやれるこれまでの自分を中心とした状況を何より楽しんでいたのであり、彼の男の心性はそれが永遠につづくかのような幻想を抱いてしまっていた、か。ま、多数の女の子と仲よくやれる状態というのは、それはそれで魅力的なものではあるのでしょう。そしてその麻薬のような微薫に酔ってしまい、著しく現状認識を欠いてしまったのが竜児であり、彼の失恋は、ある意味自然の成行でもあった、か。ま、はてさてというのも嘆息でしょうけど。」
『まるで夢のように、竜児に縋って生きてきた。「これは縋っているんじゃない、面倒をみさせているのだ!」とか、わけのわからない言い訳を自分にしながら、「どうせ今だけだから。たとえば竜児が引っ越したり、私が引っ越したり、みのりんと付き合うことになったり、北村くんと付き合うことになったりすればどうせこのままではいられないのだから」――なんて思いながら、竜児とともに生きていたのだ。竜児の優しさに許されるままにしがみつくみたいにして、生きていたのだ。これだって夢なんだから、弱いのではないよね。これぐらいいいよね、と。
それが今夜で、終わりになった。
実乃梨は竜児に惹かれていると思う。竜児は、本当に実乃梨に恋していると思う。二人はつまり、両想い。だから二人は、付き合うことになるだろう。そうしたら自分は今までのようにしてはいられない。高須家にも、今までみたいには出入りできない。なにかあっても、竜児をもう呼んではいけない。竜児の隣を、歩いてはいけない。傍らにいるのは自分じゃない。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ7!」
「前回のエントリ(→とらドラ! 第18話「もみの木の下で」)で私は竜児と大河には「彼らの歪な点というのは彼らは意中の人と無事に恋人になることができたとき、竜児と大河、二人の関係性はどうすべきかなって点の思考がぜんぜん欠落してる」っていうことを記したけど、今回、その歪さに気づいちゃうのが大河のおかれた立場、ついに追いこまれた彼女の境遇であって、大河は父と母の仲をとりもつ健気な娘の役割を果そうと試みたのだけど、それは結果として「竜児の傍らにいる自分」を疎外する事態につながるのだということを、そしてその事態は自分にとって「いやだ」という、恋する少女の心理にはきわめて自然な感情を、大河に、やっともたらした。だから、これは家族の物語の終焉。そして竜児の少年の夢の、大河の家族の願望の、浅はかさを露呈した終りだった。」
「映像であらわされると実に意味深長な構図になっているけれど、原作の場合はここらの描写はモノローグを多用した心理の追及に頁をほとんど費やしているのよね。原作が怒涛の心情の暴露に走ったのに比較すると、アニメは静かな舞台の構築に労力を払ったといった感じかしら。単純に原作をそのまま再現するのではなく、一工夫して魅せる点に、製作陣の力量はうかがえるのでしょうね。」
『そう、ずっと愚かな夢を見ていた。
それは、自分が竜児を父親のように慕っているんだ、という勘違い。竜児は実乃梨と結ばれて、そして自分は「巣立ち」して、一人で生きていく。そんな未来を望んでいる、というのも、すべてがまるごと勘違い。愚かなことに、寂しくたって耐えられるのは、父である竜児の想いが、自分が一人で生きていく力を育ててくれるから……とか、寝ぼけたことを考えたりもして。父というのは、そういうものだと思い込んで。
だけど現実はそうではなかった。竜児は、父親なんかではなかった。自分を顧みてくれない父親への執着はそれとしてあり、竜児への執着もまた、それとしてあった。そして別れの瞬間は、「巣立ち」なんて前向きなものではなく、ただの「喪失」。自分は竜児を失って、たった一人で、孤独な未来を生きていかなくてはいけない。
――本当は、竜児と共にありたいのだ。今になって、やっとわかった。二人で手を携え、新しい毎日を、ずっと一緒に進んでいきたかったのだ。だけどそれはもうできない。すべては遅すぎた。現実は、壊れた。そして夢からも醒めた。残ったのは、この身ひとつ。
いったいどこで自分は間違えたのだろう。竜児は言ってくれていたのに。「自分は竜で、おまえは虎。竜と虎は、並び立つんだ」と。なのにバカな自分は夢ばかり見て、竜児にぶらさがるだけぶらさがって、甘えて、縋って、逃げてばかりで、何一つ真面目に考えなかった。いずれ、いずれ、と先延ばしにして、そのしわ寄せが結局このザマだ。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ7!」
「ここまでの認識が来た物語は、けっきょく、どういった結末を迎えるべきなのかな。大河が至った認識は、ある意味亜美さんが危惧した最悪の状況を当面することになってそのまま了解したという形であって、大河は竜児や実乃梨との関係性を考え直す岐路に立ってる。そしてそれは実乃梨も同じで、竜児に対しての決別の宣告は、彼女なりのけじめでもあったかなって、私は思う。‥ただ、そう、問題は竜児であり、このあとの竜児の行動如何によって、この作品の方向性というのは決定しちゃう。だから、竜児、原作のようには行かないで。原作のあなたの選択は、最低だから。せめてアニメでは、べつな姿を見せてみて。ここまでのあなたの姿は、けしてわるいものでなかったって、だからこれからのあなたの決断もそれに見あうものであってって、そう私は願うから。そう、私は信じたいから。だから、竜児、私に見せてくれてみて。あなたの、決断を。」
「予告を見る限り、次回はもしかしたらオリジナルになるのかしら。たしかにこの後の選択にこそ本作の成行はすべて懸かっているとみていいのだから、原作のとおりに終らせまいとすれば、まさに今こそが選択のときなのでしょうね。それはつまりありえたかもしれない彼らの未来のもうひとつの姿の提示であり、それは原作と比較してみれば慰めにしかならないのしかもしれないでしょうけど、しかし、良いアニメ作品であるだけに、素敵な方向性を予感させてもらいたいものよ。次回は、山場よ。大いに期待させてもらうとしましょうか。」
『それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。』
三木清「人生論ノート」
「実は竜児は大河とも実乃梨ともそして亜美とも仲よくやれるこれまでの自分を中心とした状況を何より楽しんでいたのであり、彼の男の心性はそれが永遠につづくかのような幻想を抱いてしまっていた、か。ま、多数の女の子と仲よくやれる状態というのは、それはそれで魅力的なものではあるのでしょう。そしてその麻薬のような微薫に酔ってしまい、著しく現状認識を欠いてしまったのが竜児であり、彼の失恋は、ある意味自然の成行でもあった、か。ま、はてさてというのも嘆息でしょうけど。」
『まるで夢のように、竜児に縋って生きてきた。「これは縋っているんじゃない、面倒をみさせているのだ!」とか、わけのわからない言い訳を自分にしながら、「どうせ今だけだから。たとえば竜児が引っ越したり、私が引っ越したり、みのりんと付き合うことになったり、北村くんと付き合うことになったりすればどうせこのままではいられないのだから」――なんて思いながら、竜児とともに生きていたのだ。竜児の優しさに許されるままにしがみつくみたいにして、生きていたのだ。これだって夢なんだから、弱いのではないよね。これぐらいいいよね、と。
それが今夜で、終わりになった。
実乃梨は竜児に惹かれていると思う。竜児は、本当に実乃梨に恋していると思う。二人はつまり、両想い。だから二人は、付き合うことになるだろう。そうしたら自分は今までのようにしてはいられない。高須家にも、今までみたいには出入りできない。なにかあっても、竜児をもう呼んではいけない。竜児の隣を、歩いてはいけない。傍らにいるのは自分じゃない。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ7!」
「前回のエントリ(→とらドラ! 第18話「もみの木の下で」)で私は竜児と大河には「彼らの歪な点というのは彼らは意中の人と無事に恋人になることができたとき、竜児と大河、二人の関係性はどうすべきかなって点の思考がぜんぜん欠落してる」っていうことを記したけど、今回、その歪さに気づいちゃうのが大河のおかれた立場、ついに追いこまれた彼女の境遇であって、大河は父と母の仲をとりもつ健気な娘の役割を果そうと試みたのだけど、それは結果として「竜児の傍らにいる自分」を疎外する事態につながるのだということを、そしてその事態は自分にとって「いやだ」という、恋する少女の心理にはきわめて自然な感情を、大河に、やっともたらした。だから、これは家族の物語の終焉。そして竜児の少年の夢の、大河の家族の願望の、浅はかさを露呈した終りだった。」
「映像であらわされると実に意味深長な構図になっているけれど、原作の場合はここらの描写はモノローグを多用した心理の追及に頁をほとんど費やしているのよね。原作が怒涛の心情の暴露に走ったのに比較すると、アニメは静かな舞台の構築に労力を払ったといった感じかしら。単純に原作をそのまま再現するのではなく、一工夫して魅せる点に、製作陣の力量はうかがえるのでしょうね。」
『そう、ずっと愚かな夢を見ていた。
それは、自分が竜児を父親のように慕っているんだ、という勘違い。竜児は実乃梨と結ばれて、そして自分は「巣立ち」して、一人で生きていく。そんな未来を望んでいる、というのも、すべてがまるごと勘違い。愚かなことに、寂しくたって耐えられるのは、父である竜児の想いが、自分が一人で生きていく力を育ててくれるから……とか、寝ぼけたことを考えたりもして。父というのは、そういうものだと思い込んで。
だけど現実はそうではなかった。竜児は、父親なんかではなかった。自分を顧みてくれない父親への執着はそれとしてあり、竜児への執着もまた、それとしてあった。そして別れの瞬間は、「巣立ち」なんて前向きなものではなく、ただの「喪失」。自分は竜児を失って、たった一人で、孤独な未来を生きていかなくてはいけない。
――本当は、竜児と共にありたいのだ。今になって、やっとわかった。二人で手を携え、新しい毎日を、ずっと一緒に進んでいきたかったのだ。だけどそれはもうできない。すべては遅すぎた。現実は、壊れた。そして夢からも醒めた。残ったのは、この身ひとつ。
いったいどこで自分は間違えたのだろう。竜児は言ってくれていたのに。「自分は竜で、おまえは虎。竜と虎は、並び立つんだ」と。なのにバカな自分は夢ばかり見て、竜児にぶらさがるだけぶらさがって、甘えて、縋って、逃げてばかりで、何一つ真面目に考えなかった。いずれ、いずれ、と先延ばしにして、そのしわ寄せが結局このザマだ。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ7!」
「ここまでの認識が来た物語は、けっきょく、どういった結末を迎えるべきなのかな。大河が至った認識は、ある意味亜美さんが危惧した最悪の状況を当面することになってそのまま了解したという形であって、大河は竜児や実乃梨との関係性を考え直す岐路に立ってる。そしてそれは実乃梨も同じで、竜児に対しての決別の宣告は、彼女なりのけじめでもあったかなって、私は思う。‥ただ、そう、問題は竜児であり、このあとの竜児の行動如何によって、この作品の方向性というのは決定しちゃう。だから、竜児、原作のようには行かないで。原作のあなたの選択は、最低だから。せめてアニメでは、べつな姿を見せてみて。ここまでのあなたの姿は、けしてわるいものでなかったって、だからこれからのあなたの決断もそれに見あうものであってって、そう私は願うから。そう、私は信じたいから。だから、竜児、私に見せてくれてみて。あなたの、決断を。」
「予告を見る限り、次回はもしかしたらオリジナルになるのかしら。たしかにこの後の選択にこそ本作の成行はすべて懸かっているとみていいのだから、原作のとおりに終らせまいとすれば、まさに今こそが選択のときなのでしょうね。それはつまりありえたかもしれない彼らの未来のもうひとつの姿の提示であり、それは原作と比較してみれば慰めにしかならないのしかもしれないでしょうけど、しかし、良いアニメ作品であるだけに、素敵な方向性を予感させてもらいたいものよ。次回は、山場よ。大いに期待させてもらうとしましょうか。」
『それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。』
三木清「人生論ノート」