2009/03/06/Fri
「この物語において汐を死なす必要性が果してあったのかなって疑問は、クラナドという作品にはじめてふれたときから今まで私のなかに燻ってきた問題であって、その汐の死の悲劇性への違和感は、未だ胚胎したそのときから完全に解消されることなく私の裡に留まってる。それというのもこれまでのストーリーの成行を思うなら、渚の死によって一度人生に裏切られた朋也が、娘の存在によって死んだ心をとり戻し、さらに父との和解を済ませるって流れはとてもきれいなものだし納得の行くものでもあって、この作品は直幸との和解の段階で終らせてもよかったのでないかなって思いが、私には拭えないから。でもだけど、そこで物語を終らせることなくて、そのあとを描こうと試みたのが本作であって‥それはこれまで恋人同士が結ばれる過程までしか描かなかった恋愛作品とは異なり、結婚からそののちまで視野に納めたこの作品の発想の大きさを証するものでもある‥汐の死もまた、そういった文脈のなかで考察しなきゃいけない問題なのかなって、私には思われるかな。‥汐の死に、いったいなんの意味があったんだろ。町とは運命であり、そして不条理に弄ばれる朋也の人生の比喩にほかならないのだとしたら、その町に殺される渚と汐と、そして彼女たちを愛した朋也の存在に、いったいなんの意味があったのかな。私は、いつもそこで、答えに窮しちゃう。」
「なぜ渚は死ななければならなかったのか。なぜ娘である汐もその顛末を再現せねばならないのか。ま、そういった疑問がこの作品のラストには否応なく喚起させられるということなのでしょうね。そしてその疑問は、今回のエピソードでふれられた朋也の町への不信感といった形で視聴者の共感を呼びながら語られるのであり、町つまり人生はなぜこういった悲劇を用意するのか。そして運命とは、もしくは神とは何なのか。その種の疑問が、ここでは問われているのでしょう。ま、要するに、クラナドという人生をテーマにした作品が最終的に直面した課題は、くしくもヨブ記のそれであった、か。はてさてね。」
『なぜ、悲惨な境遇に泣く者に、光といのちが与えられるのか。彼らは死にたくても死ねない。人が食べ物や金のことで目の色を変えるように、ひたすら死にたがる。思いどおり死ねたら、どんなにほっとするだろう。神の与えるものが無益と失意の人生だけだとしたら、なぜ、人を生まれさせるのだろう。出るのはため息ばかりで、食事ものどを通らない。うめき声は水のように止めどなくあふれる。恐れていたことが、とうとう起こったのだ。ぬくぬくと遊び暮らしていたわけでもないのに、災いが容赦なく降りかかったのだ。』
「ヨブ記」第3章
「なぜ私は生まれたのだろうと、ヨブはいう。そしてこの台詞は、そのまま朋也の過去への想起へと直接に重なる意味性があるのであって、人生の根本的な意義を疑いせしめるような不条理に出会ったとき、人はみずからの存在、なぜこんな不遇な「私」があるのだろうかといった悩みに直面するのはある意味必至であって、それはなぜなら私の存在の喜びや意義や意味を吹き飛ばすかのような威力とやるせなさを伴ったのが不幸の究極的な意味あいであるからで、朋也が渚と出会わなかったほうがよかったのでないかなって思っちゃう場面は、ヨブ記の問題の構図のままであるのはまったく自然なのかなって、私は思う。‥私は、なんていうのかな、たぶん次回の最終話で朋也にはある救済がもたらされて、人生のすばらしさを認識し町‥つまり運命‥を肯定する流れに、原作と同じように、描かれるのだろうって予想するのだけど、でもたぶんクラナドという作品の意味を思うなら、ほんとはこの回が最終回であったのだと思う。つまり渚も死に、汐も死ぬ。そして朋也は己の存在の意味を失う。それがこの作品の最終的な結論だったのだと思う。それはヨブがけっきょく絶望のうちにおかれるように。安易な答えなんて、与えられないかのように。」
「ヨブ記のさいごの救いの描写が後代の加筆であるのと同様、次回のクラナドのエピソードがそれと似た構図に納まるであろうことは十分に考えられる、か。ま、たしかに物語が終盤に至ってこれほどの悲劇性を呈出するクラナドという作品が、一般的な評価のためにもラストの救済を描かなければならなかったというのは致し方ない部分もあるのでしょう。ただそれでも町のもたらした不条理というものは視聴者には明らかに納得できない何かとして残ることは、残る。そしてその納得できない何かというものは、おそらく最終回で描かれる希望によっては単純に解消される性質のものでもないのでしょう。運命とは、そう都合の良いものでないでしょうからね。残酷なようだけれど、しかし人は残酷なくらいに孤独におかれるものよ。なんてことかしら。」
奪い、そして与える
度々お邪魔してすみません。
私はアブラハムとイサクを思い浮かべました。
(聖書に精通している訳ではないので突っ込まれると困ってしまいますが。)
原作の汐が3回死なないと救われないと言う試練も何処か宗教じみています。
今回のエピソードによって『光の玉を集める行為』は『街』という神に捧げる贄にしか過ぎず、
『幻想世界』は朋也の現況や心情を映し出す鏡でしかなかったことにしてしまったと思うのです。
そして『街』という神は朋也に渚との邂逅に対する疑義を抱く度に汐を殺し続ける。
物語の意図的にも正しい答えを導くまで死ななければならないのは渚で十分なはず。
そもそも正しい答えとは何でしょうか?
ヤハウェはもしアブラハムがイサクを殺すことをためらったら逆にその命を奪ったか否か。
イサクはまだ自らを生け贄とすることを是とした感があります。そう渚も死を自ら覚悟したように。
しかしながら汐はただただその未来を断絶されます。
運命とはかくありきという物語なら、救う、いや死そのものを無かったことにする必要はないと思う訳です。
「それでも渚と出会って良かった」と思うだけで朋也の心の救済は成り立つと思うのですが
やはり石田麦さんがおっしゃる通り一般的評価の為には必要な要件だったのでしょうか。
「なぜ私は生まれたのだろうと」という自問はとらドラの竜児の葛藤でもありますね。
駄文失礼しました。
2009-03-08 日 18:28:44 /URL /昼下がりのジョージさん /
編集
>昼下がりのジョージさん
どうも。
朋也がアブラハムではないかというご意見には、はっとさせられました。
そしてジョージさんのコメントから、これまで渚という私にとってつかみ難いキャラクターが、すんなり理解できるようになりました。彼女は典型的な、信仰心の厚い、素朴な人だったんですね。
すると渚のつよさとは信仰のつよさであって、朋也が渚をつよいと評価する際のこの作品の意味性が、私にはよく見えてきた気がします。
町という神に捧げられた贄が、渚と汐の意義だったのでしょう。そして渚は、ああなんてことか、町により「被造」されてしまっているのか。
幻想世界についてはまったく仰られるとおりだと思います。というか私は、幻想世界ってナンセンスの塊でなんてつまらない描写なのかってずっと思ってるんですよ。ですからこれまでもエントリで幻想世界に言及したのはほとんど皆無ですし、あの世界は単なる朋也の悲しみの表現にすぎないのでしょう。単なる悲しみというところが、切ないですが。
2009-03-09 月 01:29:49 /
URL /石田麦 /
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『幻想世界』に抱いた幻想
私のコメが何らかしらのお役に立ったならば喜ばしい限りです。
石田麦さんと私とでは恐らく宗教に対する見解は違えども、
渚が信仰に奉じたと言う点には比喩的観点において概ね同意です。
また、「被造」された存在というのは全くその通りだと思います。
だから渚の死は、本人にとっても古河夫妻にとっても、ある意味大往生な訳です。
しかし朋也はそれを受け入れなかった。『町=神』を疑った。
そして朋也はその報いを受ける。汐の死という形で。
婉曲的には朋也のせいで汐は死んだと言えますが、やはり汐はそれだけの理由で『町』に殺されたと思う訳です。
だから秋生の「…この町と、住人に幸あれ」という台詞には私は怒りすら覚えてしまう。
私は『幻想世界』とは絶望を回避する為の何らかの装置だと考えていただけにこの物語に残念以上の徒労感を感じてしまいました。
実を言うとこのアニメの1期の第2回のAパートの『幻想世界』シーンでの情緒的なモノローグ、美しい映像に度肝を抜かれたクチです。
人形役の矢島晶子さんを以前より素晴らしい声優だと思っていたし、この役においてもその片鱗を見せて戴いた。
1期では何やらヒントめいたものを残すに留まって終わってしまってたので、
つまり『幻想世界』の意味合いを知りたいが為に原作ゲームをやったと言ったとしても過言では無いくらいです。
(ギャルゲーは後にも先のもこれのみ。正直言うと少女や本編のキャラクターデザインは慣れはしましたが最後まで馴染めなかった)
アニメと原作とが何かごっちゃまぜになってしまっている気がしますが、細かい誤謬はお許しください。
駄文失礼しました。
2009-03-10 火 20:28:04 /URL /昼下がりのジョージさん /
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>昼下がりのジョージさん
どうも。
ええ、クラナドという作品が最終的に提示しようとしているものが光の玉による救い=神の恩寵と考えれば、神=町への徹底した信仰こそがこの作品の核心なのでしょう。
ただわからないのはなぜそこまで町が重要視されるのか?といった部分でして、神といわないまでも町は共同体のことであり、共同体のなかで和をもって生活することが、何かクラナドという作品の思想的中心であることは疑えそうにありません。
町への信仰を通して何を訴えたかったのか。
そこが見えない限りでは、私はこの作品を否定せざるをえないのかもしれません。何か上手い説明はあるのかしら。
2009-03-11 水 14:24:59 /
URL /石田麦 /
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『死』という演出
> 共同体のなかで和をもって生活することが、何かクラナドという作品の思想的中心であることは疑えそうにありません。
確かにそう言えると思います。これはクラナドに限らずAIRやKannonにもあるベースだと思います。
(拾い見なんで確信は持てませんが)
私は「すれ違う(違った)者同士の和解」がメインテーマだと思ってました。
『渚の死』もその意味においてはテーマに則していると思います。
『汐の死』さえなければ『町への信仰』も『光の玉の収集』もそれなりの説明はつくと思っているのですが、
このことで私は完全に思考停止してしまってます。
誤解を恐れずに言うとするなら「泣きゲー」としての完成度を高める為にインパクトを与えたかったのが『汐の死』の正体とではないかと勘ぐってしまってます。
2009-03-11 水 21:02:22 /URL /昼下がりのジョージさん /
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>昼下がりのジョージさん
どうも。
汐の受容、そして父との和解で朋也の人生の物語はあらかた終了していると見てぜんぜん問題ないのですよね。
ですが仰るとおりなんとしても渚を復活させねばならない本作は、汐の死を導入せねばならなかったのであり、その死に物語的な必然性が与えられているのかといえば、ま、それは困難だろうとは私も思います。
なんというか、渚という人格は劇薬で、もしかしたら朋也にはさいしょから荷が重い相手だったのかなという気が少しします。
渚という人間を御しきれる人は、そういないかなと。いうこときかないし。
2009-03-11 水 23:12:36 /
URL /石田麦 /
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まあ、単純に無自覚な子供をスケープゴートにすることを受容できないってだけです
渚の復活はおまけのパラレルワールドとしてならアリだと思います。何も汐を殺さんでもそれは可能だったはずです。
あと一番の失敗は渚と汐の病気を原因不明にしたことです。普通に何らかの不治の病にすれば良かったのに。
これによって『町』をメシアではなくゼウスにしてしまった。
> 渚という人格は劇薬で、
渚ってジットの『狭き門』のアリサ並みの豪傑ですからね。
標題の件の全てを否定する訳ではないんです。
ご存知かもしれませんが、Sキング原作で『悪魔の嵐』という凄まじいTVドラマがあります。
2009-03-12 木 22:16:45 /URL /昼下がりのジョージさん /
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>昼下がりのジョージさん
どうも。
渚と汐の病は文字通り町の呪いだったのでしょうね。
その意味でこの作品の町とは、ユダヤ的な神の色彩が強いといっていいでしょうし、朋也の町への慟哭は、神に翻弄される預言者のそれと重なるものがあるのでしょう。
渚がアリサだというのは、いやまったくなるほどと頷きました。
そうそう、そのとおりなのですよね。渚はアリサ、か。いやほんとにそのとおり。
「悪魔の嵐」というのは、いえ、知りませんでした。ドラマふだんは見ないのですよね。おもしろそうなら見てみようかとも思います。どうなのかしら。
2009-03-13 金 15:51:58 /
URL /石田麦 /
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単純に汐をメシアにすれば良かったんじゃないかと。ベタ過ぎますか?
実のところアニメ版では汐を殺さないシナリオを淡く期待してたのです。その方が数倍感動的な物語に仕上がる根拠無き自信があります。
昨日最終回を見ましたがあれを世間の人はどう捉えるんでしょうね。まあ、この件は麦さんの新たな記事で垣間見ささせてください。
> 「悪魔の嵐」というのは、
Sキングの作品は、先に上映された『ミスト』もそうですが、何か悪魔的なものに何らかの要求または対価が必要になったとしても、それを捧げることを決断するのは結局のところ人間であるというのが本筋のドラマです。面白いと言うか胃がきりきりします。ホラー的という意味ではなく、サイコ的に。
2009-03-13 金 20:29:07 /URL /昼下がりのジョージさん /
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>昼下がりのジョージさん
どうも。
汐にはもともと朋也のメシアとしての属性がありますし、単純に汐が原因不明の病で倒れるというわけわからない展開を除去すれば、それでこの作品は完成なのだろうって思います。
最終回の世間的な評価は、はてさて、どうなのでしょう。あんがい渚が助かって素直によかったっていう人の割合のほうが少ないのじゃないかな。
「悪魔の嵐」はなかなかおもしろそうですね。機会があれば見てみようと思います。情報どうもです。
2009-03-14 土 00:57:57 /
URL /石田麦 /
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朋也の永劫回帰
はじめまして、daimongと申します。クラナドの悲劇的展開とヨブ記に共通性を覚えてググってたどり着きました。
皆さん色々意見があって興味深かったです。個人的にはクラナドは朋也の成長を描くものと思うので、朋也が父親を理解し和解するために渚の死が(作品のテーマを描くために)必要であった。そして朋也は渚のような強さを手に入れたが、それが本物であることが証明されねばならない。そのために汐は死なねばならなかった。父の代から続く試練を何度も乗り越えてようやくたどり着く境地、それこそ描くべき価値のあるものなのでしょう。それこそニーチェの永劫回帰のごとくに。
2009-03-17 火 17:18:08 /URL /daimong /
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>daimongさん
どうも。
なるほど、朋也が強くなることへの試練と看做す見地に立てば、渚の死も汐の死も必然として理解することが可能だというご意見は、私には見落されていたものだと思います。
ただなんていいますか、私は渚や汐を犠牲にして得られるような強さなら、べつに求めなくてもいいんじゃないかなって思うんですよ。
べつに弱くてもいいんじゃないかなって思うんです。もちろん朋也の父のような堕落は見るに辛いものですが、しかし、他者を祭壇に捧げて得られるような強さは、私には薄気味悪い。
2009-03-18 水 14:40:51 /
URL /石田麦 /
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☆<3/06更新>前回(第20話 「汐風の戯れ」)の感想をポットキャストにて収録しました。「汐の細かな仕草の描写」、「この作品には果たして奇跡の力が必要なのか?」等、アニメブロガーさんと共にワイワイ?...
第21話 『世界の終わり』
渚の時もそうだったのですが、
汐の時もどうにも腑に落ちないのは、
病気に対するこの作品のスタンスでしょ...
しかしこのアニメ次回が最終回だったんですね総集編が最後にあるとは知っていましたが再来週は番外編でしょうかそしたら和む日常が見れそうで良いですね~さて、今回は重い展開ただ汐の病気が渚と同じで原因不明なファンタジーなのはちょっとがっかりまぁそれはkeyお得意...
[関連リンク]http://www.tbs.co.jp/clannad/第21回 世界の終わり突然熱を出した汐これはただの熱なのだろうか?同じ症状。熱を出した汐の元に医者がやってくるそしてその医者は渚と同じ症状だ...
渚さんと同じですね…
そんなあああああ!!!!・°・(ノД`)・°・
運動会前日にあんまりな出来事。
そのまま汐ちゃんは床に伏すことに…
1週間
2週間
1ヶ月…
うりゅりゅりゅりゅりゅ…(´□`。)
汐ちゃんよくなりません…
それどころかどんどん弱...
CLANNAD~AFTERSTORY~の第21話を見ました。第21回 世界の終わり汐が突然、熱を出して倒れてしまった。その症状は渚と同じで、医者からは原因が分からないと告げられ、打つ手がなかった。『さっきまであんなに元気だったのに…』「朋也、こいつの父親は誰だ?」「…俺で...
CLANNAD ~AFTER STORY~ 第21話、「世界の終わり」。
ゲーム版はやっておりません。
運動会前夜に倒れた汐。医者によると、渚と同じで原因不...
汐の担任が研修から戻る日、挨拶をする為一緒に幼稚園に向かった朋也。そこで出迎えたのは、巨大なイノシシだった。慣れている様子で楽しそうにイノシシを遊び道具にして遊ぶ汐。朋也は見覚えがあるボタンの存在を思い出した。そしてボタンと共に懐かしい顔と再会を果た...
実はリアルタイムで見ていたCLANNAD AFTER STORY。 しかしあまりの情け容赦のない展開にとても気力が沸かなかった(涙) いや…それにしたって中村悠一さんはスゴすぎる。 そしてこおろぎさとみさんも。 前回「人生は不条理」と書いたけど、今回は「人生は無情」だと。 C...
終わりが近づいているというのか・・・【20%OFF!】CLANNAD-クラナド-~AFTERSTORY~(4)【初回限定生産】(DVD)早速感想。渚と同じ、謎の病に倒れた汐。渚同様に、対処の方法もわからず長い長い寝たきりの生活を・・・。その間に朋也は汐のそばにいてやりたいということ...