けいおん! 第12話「軽音!」
2009/06/19/Fri
「最終回の内容としてはまず文句ない出来だったのじゃないかな。というのも第一にここに来て一応主役であった唯の軽音部に入部してからの物語の締めくくりとして彼女を中心に据えて今回のエピソードを展開したのは妥当に思えるし、その材料として原作を上手く再構成してた印象は十分受けとることが可能だった。つまりひとりのこれまであまり自発的でもなくて、ただ周囲に流され安穏としてた女の子が、高校に入学して環境を変わったことを機会に新しく目標をみずから定めて積極的に変わり映えのしない日々をでもそれでもできる限り楽しく生きてこうっていう決意の表現の一連の物語として本作を捉えたとき、今回のお話はその成果を自分の居場所をつかむことができた唯の姿とその表明において見出すことができるのであり、この点に関してはラストを飾る舞台として、少しトラブルもあったけど学園祭はまさにふさわしいものに成りえたのじゃないかなって思うかな。‥ただでもだけど、本作の終りとしては今回の最終回はたしかにすごく楽しくみれたのだけど、でもそこに至るまでのストーリーがどうだったのかなって考えた場合、この「けいおん!」はかならずしも高い評価を得ることはできなくなっちゃうのじゃないかなって危惧されちゃうのが、もしかしたらこの作品にとって何より惜しいことなのかもしれない。というのも、これは大方の人の同意は得られることと思うけど、けっきょく最終回で唯が宣言したように彼女たちはあまり演奏にそれほどかかずらってきたわけじゃなくて、音楽に対する熱意のあらわれとしての練習風景という点においては、まだしも原作のほうが精力的に描いてるように思えちゃうくらいだから、このアニメ版についていうならもっと軽音そのものについての切りこみや描写はふかくしてもよかったのじゃないかなって、私は思う。‥ある意味、この作品は一週ごとに鑑賞してはじめて楽しかった作品であるのかもしれないって、そんな気するかな。シリーズ全体を通して一気に見たなら、本作から受ける印象はそれほどよいものじゃなかったかもしれない。だってこの作品は、閉じた関係性における虚ろな日々の温かさ‥ありえただろう青春への憧憬‥こそを、テーマに描いたものにほかならなかったのだから。」
「一話ごとの関係性が薄いというか、ま、結局本作は大局的なストーリーがなかったという点が、その評価を微妙なものにさせてしまう大きな要因であるのでしょうね。なぜなら軽音に対する情熱をこそ最終回の唯はアピールしてはいるものの、その軽音それ自体に関して彼女がそこまで入れこんでいたのかどうかといえば、その答えはなかなかきびしいものになることは否めないでしょう。つまり何かしら、唯が軽音に対して真に感謝しているその根本的な理由は何かと問うならば、それは唯が軽音を通じて今の仲間たちに出会えたということであり、また軽音という場が提供してくれた友だち同士で切磋琢磨して行きながらひとつの共同作業である演奏を完遂するという、連帯の喜びこそに相違ないからよ。ま、しかしとはいっても、これはぜんぜん悪いことではないのよ。大切な仲間に出会えたからこそ、軽音が大事だというのは、まったく良い理由よ。ただでも何かしらね、音楽そのものにはそれほど入れこまなかった彼女たちだけに、本作のラストは少し素直に感受できない部分が残るということも、またたしかなことではあるのでしょう。練習描写を増やせば良かったかどうかは判断に困るところではあるのでしょうし、ま、バランスのとりづらい部分ではあるかしら。」
「音楽に対する研鑽の積み重ねと練習が当り前のようになってる彼女たちの音楽活動の日常がよりよく描かれなかったために、最終回さいごの演奏場面での唯の情熱はどこか空回りしちゃってる印象をある意味受けざるをえないと感じられるから、かな。‥とくに梓が登場した回において唯たち四人のあまり練習しないのがふつうっていう状況を明確に本作は描いちゃってるから、それについてのなんらかのフォロー‥たとえば梓が来たことによって少し反省して、練習にそれまでよりも熱心にとりくみだすとか‥が効果的にあったなら‥もちろん合宿の回において自主練する唯っていう場面を挿入してくれてはいるけれど、でもその前段階における合宿そのものの描写において、彼女たち遊びすぎちゃってるから、唯の自主練習のシーンもどこかおためごかしだった印象は抜けきらないのじゃないかなって思うかな。もちろんあの唯と梓のいっしょに練習するとこそのものがわるくない出来だったことは、私は率直に主張するにやぶさかでないけど‥この最終回の余韻も、また一段とふかまったものになったのじゃないかなって気が、私は少しするかな。‥でも、ただ何かな、私は今回のお話自体は‥これ単体として見るなら‥とても感に堪えるものがあったことをここに告白せざるをえなくて、それというのもなぜかというと、好きなものを見つけて、そしてその好きなもの自体に感謝するラストの唯の姿勢といったものは、もしかしたらこれはひとつの幸福の端的な図であるのかもしれないって、そんな気に私はさせられたから。‥自分の好きな、自分が好きだと思うことを自分自身が納得し、そして結果はともかくとしてもそれに専心できることというのは、かんたんなようでいてなかなかそうでない。それはなぜなら、私は私をどうしたいのか、その問題こそは、もしかしたら他者に影響されない自分自身のありうべき姿勢を自己自身に問答する、根源的な自己認識を含むものかもしれないって、そんなふうに思うから。」
「私は私をどうしたいのか、か。ま、入学した当初の唯もそういった焦燥感に駆られていたために、なんとかして現在の状況を打開しようと軽音部に入ったであろうことは、まずまちがいのないことでしょうからね。そして唯の抱いただろう自分がやることがないための空虚感、そしてそういった空虚さのために生じる焦燥感といったものは、多くの人がもったことのあるものでしょうし、そしてその中ではその焦燥感にいつしか慣れてしまい、自分が本当は何をしたいのか?といった問題を考えることを忘れてしまった人さえいるのでしょう。ま、そう考えていけば、たとえ少しだらけていたとしても、自分の楽しみを仲間と分ちあえる居場所を獲得した唯は、はてさて、あれでなかなかがんばったといえるのでしょうね。というのも、自分のしたいことというのは実はよく抑圧されているものであり、また他者の視線が自分の選択というものを限定させてしまうものなのでしょうから。たとえば憂といっしょに来た友だち思しき女の子は、軽音部が一見して変な様子だったために敬遠してしまったでしょう? しかしもし彼女が一歩そのなかに足を踏み入れていたならば、ちがう世界が見えたかもしれない。ま、だからどうしたという話でもないでしょうけど、いろいろな可能性を考えてみるのはおもしろいものかしらね。‥私は私をどうしたいのか、か。はてさてといった問題ね。本当に、それははてさてね。」
「一話ごとの関係性が薄いというか、ま、結局本作は大局的なストーリーがなかったという点が、その評価を微妙なものにさせてしまう大きな要因であるのでしょうね。なぜなら軽音に対する情熱をこそ最終回の唯はアピールしてはいるものの、その軽音それ自体に関して彼女がそこまで入れこんでいたのかどうかといえば、その答えはなかなかきびしいものになることは否めないでしょう。つまり何かしら、唯が軽音に対して真に感謝しているその根本的な理由は何かと問うならば、それは唯が軽音を通じて今の仲間たちに出会えたということであり、また軽音という場が提供してくれた友だち同士で切磋琢磨して行きながらひとつの共同作業である演奏を完遂するという、連帯の喜びこそに相違ないからよ。ま、しかしとはいっても、これはぜんぜん悪いことではないのよ。大切な仲間に出会えたからこそ、軽音が大事だというのは、まったく良い理由よ。ただでも何かしらね、音楽そのものにはそれほど入れこまなかった彼女たちだけに、本作のラストは少し素直に感受できない部分が残るということも、またたしかなことではあるのでしょう。練習描写を増やせば良かったかどうかは判断に困るところではあるのでしょうし、ま、バランスのとりづらい部分ではあるかしら。」
「音楽に対する研鑽の積み重ねと練習が当り前のようになってる彼女たちの音楽活動の日常がよりよく描かれなかったために、最終回さいごの演奏場面での唯の情熱はどこか空回りしちゃってる印象をある意味受けざるをえないと感じられるから、かな。‥とくに梓が登場した回において唯たち四人のあまり練習しないのがふつうっていう状況を明確に本作は描いちゃってるから、それについてのなんらかのフォロー‥たとえば梓が来たことによって少し反省して、練習にそれまでよりも熱心にとりくみだすとか‥が効果的にあったなら‥もちろん合宿の回において自主練する唯っていう場面を挿入してくれてはいるけれど、でもその前段階における合宿そのものの描写において、彼女たち遊びすぎちゃってるから、唯の自主練習のシーンもどこかおためごかしだった印象は抜けきらないのじゃないかなって思うかな。もちろんあの唯と梓のいっしょに練習するとこそのものがわるくない出来だったことは、私は率直に主張するにやぶさかでないけど‥この最終回の余韻も、また一段とふかまったものになったのじゃないかなって気が、私は少しするかな。‥でも、ただ何かな、私は今回のお話自体は‥これ単体として見るなら‥とても感に堪えるものがあったことをここに告白せざるをえなくて、それというのもなぜかというと、好きなものを見つけて、そしてその好きなもの自体に感謝するラストの唯の姿勢といったものは、もしかしたらこれはひとつの幸福の端的な図であるのかもしれないって、そんな気に私はさせられたから。‥自分の好きな、自分が好きだと思うことを自分自身が納得し、そして結果はともかくとしてもそれに専心できることというのは、かんたんなようでいてなかなかそうでない。それはなぜなら、私は私をどうしたいのか、その問題こそは、もしかしたら他者に影響されない自分自身のありうべき姿勢を自己自身に問答する、根源的な自己認識を含むものかもしれないって、そんなふうに思うから。」
「私は私をどうしたいのか、か。ま、入学した当初の唯もそういった焦燥感に駆られていたために、なんとかして現在の状況を打開しようと軽音部に入ったであろうことは、まずまちがいのないことでしょうからね。そして唯の抱いただろう自分がやることがないための空虚感、そしてそういった空虚さのために生じる焦燥感といったものは、多くの人がもったことのあるものでしょうし、そしてその中ではその焦燥感にいつしか慣れてしまい、自分が本当は何をしたいのか?といった問題を考えることを忘れてしまった人さえいるのでしょう。ま、そう考えていけば、たとえ少しだらけていたとしても、自分の楽しみを仲間と分ちあえる居場所を獲得した唯は、はてさて、あれでなかなかがんばったといえるのでしょうね。というのも、自分のしたいことというのは実はよく抑圧されているものであり、また他者の視線が自分の選択というものを限定させてしまうものなのでしょうから。たとえば憂といっしょに来た友だち思しき女の子は、軽音部が一見して変な様子だったために敬遠してしまったでしょう? しかしもし彼女が一歩そのなかに足を踏み入れていたならば、ちがう世界が見えたかもしれない。ま、だからどうしたという話でもないでしょうけど、いろいろな可能性を考えてみるのはおもしろいものかしらね。‥私は私をどうしたいのか、か。はてさてといった問題ね。本当に、それははてさてね。」