川端康成「眠れる美女」
2009/06/23/Tue
「昭和三十五年から三十六年にかけて執筆された「眠れる美女」は、病的な文学的資質をもつ川端康成のその極致ともいうべき内容と、精緻に精緻を重ねる細やかな言葉による機械的な装飾ともいうべき文章と、そして何よりその常人なら発狂せんばかりの題材をあまりに冷徹な目と心とによって観察し尽した文学者としての川端の恐ろしいまでの冴えがあらわれた代表すべき一作だって、私は思う。‥本作はデカダンス文学‥退廃的、厭世的な世界観を基調とする作品の類を指す‥のその完全な達成ともいうべき、ひとつの可能な限りの小説的技法が用いられた真に読み応えのある一冊じゃないかなって私は感じるのだけど、その理由としては川端の事実をありのままにまるで理科の実験のレポートを書くかのように場面を記述する、その圧巻ともいうべき描写力が全編にわたって展開されてるからで、本作を紐解く人はだれあろうと川端の筆致の怒涛ともいうべき緻密さに圧倒されることじゃないかな。そしてさらには本作はそういった形式的、技法的な面の高さに支えられてながらも、あくまで読む者の心を揺さぶるのは川端以外には発想しえないだろう小説の舞台設定の異質さ、異常さに求められることはちがいなくて、この作品のような世界をここまで冷徹に静謐に忍耐つよく描写しつづけようと思えるのは、たぶん川端を除いてのだれにも不可能だったのじゃなかったかな。‥その意味で、やっぱり川端というのは日本的風土に生まれた実に日本的人間でありながら、そのままユニヴァーサルに通じる異常性を常に湛えつづけた、怪人でこそあったのだろうなって、私は思う。川端の恐ろしさというのは、なかなか口にしがたいくらいかな。だって、ちょっと人間ぽくないものね、川端って。」
「川端は人間をどこか超越しているか、あるいはそれとも異常にある部分が欠落しているのでないかと思われてしまうと、はてさて、そういうことなのかしらね。ま、しかしもちろん本作の内容を踏まえれば、川端の着眼点というのはおよそやせ細った知識人や、泰然として大家を装っている凡人に比較するなら、まったくどうしようもないくらいの魔性というべき要素が含まれていたことはたしかな事実であるのでしょう。というのも本作「眠れる美女」という小説が何を描いたものなのかといえば、これはとある宿に通うひとりの老人の姿を描写したものであり、なんのために彼らが宿に向うのかといえば、これはさて女を買うためなのよね。しかし売春とはいっても、買い手はもはや男としての機能を果せない老人らばかりであり、ただ一晩薬によって眠らされた少女の横でその肢体を眺めながら眠りにつくだけが、彼らには許されている。眠らされた少女たちは何をどうしようと目を覚ますことはなく、ただ老人たちは枯れ果てた性欲を伴いながら、若々しい少女の傍らにいることを最上の、老境の果ての悦びとしている。ま、こんな内容かしらね。そのすごさといったものは、どうにも説明しにくいものかしら。」
「もう性交を実際にすることのできない老人が、ただ少女のとなりにあるためだけに売春宿に赴くって発想が、とにかくすごいよね。‥老いの悲哀とはもちろんかんたんにはいうことができるけど、でも私は何かな、老いというものが人間そのものを変えうるものだとはとうてい思えなくて‥それは身近な人たちに対する私なりの観察と、そして私なりの想像によって得られた意見にしかすぎないけど‥人の心というものは、ただ身体が死にゆくだけじゃ、そう死ぬものでもないのじゃないかなって気がしてる。そしてだからこそ、老いない心を抱えた老いた身体を伴って彷徨することこそが、ある老境の哀れの核心的な理由であって、つまり老いの醜さとは老いない心と老いる身体の懸隔から生じるものって、もしかしたらそんなことさえいえちゃうことなのかもしれない。‥またさらには、本作が問題としてることのひとつには、機能しなくなった男というのは果して男であるのかな?っていう問題が潜んでるにちがいなくて、この作品の主人公自体はまだ完全に男の役割が果せないってくらいには衰亡してないけど、でも近くそうなる予感は絶えずもった人物として描かれてて、そのうえこの宿に通う常の客はもはや男の用を足せない人たちであるっていう記述が、枯れた男の性欲の問題‥それは性欲といえるのか?‥が、本作のきわめて重要なテーマであることを保障してるにほかならなないって、そう私は思うかな。‥もう屹立しない男根をもてあそんで、眠る少女の若々しい匂いをかぐ。そしてそこに己の人生の幻影を見る。‥なんて、本作はだからなんて切なく狂おしく、そして病的であるのだろう。こんな小説は、なかなかない。なぜなら老いと性の問題を、こうも切実に問いかけるのは、人生に幸いなどありはしないという孤独のうちに人が死ぬだろうことを、予感せずには決して書かれないにちがいないのであろうから。」
「遠藤周作の小説にもたしか老人が少女に性的な眩惑を感じるといった作品があったけれど(→遠藤周作「スキャンダル」)、人間において性という問題は結局死ぬまでついて離れない課題でこそあるのでしょうね。そしてそういった場合の性というものは、なんていうのかしらね、単に性交をして欲情を静められればいいとかいったような単純な問題では絶対になく、何か生きているというだけで寂しくなってしまう人の弱い心が希求するのは結局は他者なのだという、他者の温もりのほかにはないのだという、そういった真実をささやいているように、さて、感じてしまうのよね。何かこう、寒い冬の夜半に少女と寝るために宿に通う老人の姿は、世界の寂しさを究極に象徴しているようには思われないかしら? ‥ま、はてさてね。あたかも身内が冷えるような、これは小説というべきでしょう。人生とは性とは何かということを考えさせずにはおかない一冊であり、世界とは果してここまで暗い哀切なものかと考えさせられてしまうかしら。分らないものよ、本当に。」
『「一生の最後の女か。なぜ、最後の女、などと、かりそめにしても……。」と江口老人は思った。「それじゃ、自分の最初の女は、だれだったんだろうか。」老人の頭はだるいよりも、うっとりしていた。
最初の女は「母だ。」と江口老人にひらめいた。「母よりほかにないじゃないか。」まったく思いもかけない答えが浮かび出た。「母が自分の女だって?」しかも六十七歳にもなった今、二人のはだかの娘のあいだに横たわって、はじめてその真実が不意に胸の底のどこかから湧いて出た。冒瀆か憧憬か。江口老人は悪夢を払う時のように目をあいて、目ぶたをしばたたいた。しかし眠り薬はもうだいぶんまわっていて、はっきりとは目覚めにくく、鈍く頭が痛んでくるようだった。うつらうつら母のおもかげを追おうとしたが、ため息をついて、右地と左との娘のちぶさにたなごころをおいた。なめらかなのと、あぶらはだのと、老人はそのまま目をつぶった。』
川端康成「眠れる美女」
川端康成「眠れる美女」
「川端は人間をどこか超越しているか、あるいはそれとも異常にある部分が欠落しているのでないかと思われてしまうと、はてさて、そういうことなのかしらね。ま、しかしもちろん本作の内容を踏まえれば、川端の着眼点というのはおよそやせ細った知識人や、泰然として大家を装っている凡人に比較するなら、まったくどうしようもないくらいの魔性というべき要素が含まれていたことはたしかな事実であるのでしょう。というのも本作「眠れる美女」という小説が何を描いたものなのかといえば、これはとある宿に通うひとりの老人の姿を描写したものであり、なんのために彼らが宿に向うのかといえば、これはさて女を買うためなのよね。しかし売春とはいっても、買い手はもはや男としての機能を果せない老人らばかりであり、ただ一晩薬によって眠らされた少女の横でその肢体を眺めながら眠りにつくだけが、彼らには許されている。眠らされた少女たちは何をどうしようと目を覚ますことはなく、ただ老人たちは枯れ果てた性欲を伴いながら、若々しい少女の傍らにいることを最上の、老境の果ての悦びとしている。ま、こんな内容かしらね。そのすごさといったものは、どうにも説明しにくいものかしら。」
「もう性交を実際にすることのできない老人が、ただ少女のとなりにあるためだけに売春宿に赴くって発想が、とにかくすごいよね。‥老いの悲哀とはもちろんかんたんにはいうことができるけど、でも私は何かな、老いというものが人間そのものを変えうるものだとはとうてい思えなくて‥それは身近な人たちに対する私なりの観察と、そして私なりの想像によって得られた意見にしかすぎないけど‥人の心というものは、ただ身体が死にゆくだけじゃ、そう死ぬものでもないのじゃないかなって気がしてる。そしてだからこそ、老いない心を抱えた老いた身体を伴って彷徨することこそが、ある老境の哀れの核心的な理由であって、つまり老いの醜さとは老いない心と老いる身体の懸隔から生じるものって、もしかしたらそんなことさえいえちゃうことなのかもしれない。‥またさらには、本作が問題としてることのひとつには、機能しなくなった男というのは果して男であるのかな?っていう問題が潜んでるにちがいなくて、この作品の主人公自体はまだ完全に男の役割が果せないってくらいには衰亡してないけど、でも近くそうなる予感は絶えずもった人物として描かれてて、そのうえこの宿に通う常の客はもはや男の用を足せない人たちであるっていう記述が、枯れた男の性欲の問題‥それは性欲といえるのか?‥が、本作のきわめて重要なテーマであることを保障してるにほかならなないって、そう私は思うかな。‥もう屹立しない男根をもてあそんで、眠る少女の若々しい匂いをかぐ。そしてそこに己の人生の幻影を見る。‥なんて、本作はだからなんて切なく狂おしく、そして病的であるのだろう。こんな小説は、なかなかない。なぜなら老いと性の問題を、こうも切実に問いかけるのは、人生に幸いなどありはしないという孤独のうちに人が死ぬだろうことを、予感せずには決して書かれないにちがいないのであろうから。」
「遠藤周作の小説にもたしか老人が少女に性的な眩惑を感じるといった作品があったけれど(→遠藤周作「スキャンダル」)、人間において性という問題は結局死ぬまでついて離れない課題でこそあるのでしょうね。そしてそういった場合の性というものは、なんていうのかしらね、単に性交をして欲情を静められればいいとかいったような単純な問題では絶対になく、何か生きているというだけで寂しくなってしまう人の弱い心が希求するのは結局は他者なのだという、他者の温もりのほかにはないのだという、そういった真実をささやいているように、さて、感じてしまうのよね。何かこう、寒い冬の夜半に少女と寝るために宿に通う老人の姿は、世界の寂しさを究極に象徴しているようには思われないかしら? ‥ま、はてさてね。あたかも身内が冷えるような、これは小説というべきでしょう。人生とは性とは何かということを考えさせずにはおかない一冊であり、世界とは果してここまで暗い哀切なものかと考えさせられてしまうかしら。分らないものよ、本当に。」
『「一生の最後の女か。なぜ、最後の女、などと、かりそめにしても……。」と江口老人は思った。「それじゃ、自分の最初の女は、だれだったんだろうか。」老人の頭はだるいよりも、うっとりしていた。
最初の女は「母だ。」と江口老人にひらめいた。「母よりほかにないじゃないか。」まったく思いもかけない答えが浮かび出た。「母が自分の女だって?」しかも六十七歳にもなった今、二人のはだかの娘のあいだに横たわって、はじめてその真実が不意に胸の底のどこかから湧いて出た。冒瀆か憧憬か。江口老人は悪夢を払う時のように目をあいて、目ぶたをしばたたいた。しかし眠り薬はもうだいぶんまわっていて、はっきりとは目覚めにくく、鈍く頭が痛んでくるようだった。うつらうつら母のおもかげを追おうとしたが、ため息をついて、右地と左との娘のちぶさにたなごころをおいた。なめらかなのと、あぶらはだのと、老人はそのまま目をつぶった。』
川端康成「眠れる美女」
川端康成「眠れる美女」
