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2009/06/29/Mon
「グリードはアルのことを決して生理的苦痛に悩まされることがなくて身体の不調から命を危ぶむこともない、魂だけでこの地上を闊歩することをゆるされる不老不死の能う限りの姿としてはまさに理想のものであることを指摘してたけど、もしかしたらその言い分は正しくて、アルほどハガレンの世界においても完全に近い不死の実現の解答のひとつであるとはいえちゃうことなのかもしれないって思うかな。というのもたぶんこれは情報過多の現代社会に住む人ならだれであろうと、睡眠や食欲などの本能に根ざす欲求やさらには病気や怪我に代表される不測の事態がわが身に及ぼすだろう危険の可能性に、一度ならず悩まされただろうことは疑いなく断言していいことかなって気がするし、それにプラトン的な考え方からいうなら身体とはそれだけで罪ふかい人間に与えられた苦役であるのであり、彼のソクラテスはその個人に備わったできるだけの力と意志でもって肉体的な欲求には逆らって‥西洋の根本的な思想において、身体が自然発生的にもたらす欲望ほど嫌悪すべきものもない‥人は自由に使える時間のすべてを魂の修練に費やすべきとされたのだったことを周知であって、もし古代の賢人がアルの生理的必要にぜんぜん介されないでただ思考のみが彼の自己同一性を支えてるような状況を見たなら、それに対して羨望を抱いちゃうかもしれないってことは、たぶんまずまちがいなことじゃないかな。‥疲れを知らない健康で丈夫な身体にあこがれない人はない。そしてさらに病気に罹ることなくて、またいつまでも若々しい容姿を保ってられるなら、それに対していくらでも対価を支払ってもいいって思う人は、たぶんそんなに少なくないのじゃないかな。なぜなら人とはどれだけ高尚な精神性を説こうと、いみじくもニーチェが指摘したように、あくまでも一個の身体から離れること叶わない存在にちがいないからであって、どこまで行こうと人は自身の身体‥それが美しかろうと醜かろうと。強かろうと弱かろうと‥を伴って、死がもたらす無にまで突き進むほかありえないのだから。それはべつな言葉でいうなら、私は私の身体であるほかその存在をゆるされてない、ということになるのかな。‥だからもしかしたら、グリードのいった言葉は、人間の欲の最たるものであったのかもって、私はそんなこと思うかな。自身の魂だけを相手にできたらいいじゃないかなって考えちゃう人は、だって、たぶん少なくないわけないのだから。」
「身体の世話をするということはとどのつまり現実に生きていることのもっとも基本的な要請を満たすことであり、そしてまた見ようによってはもっとも生産性の伴わない動物的な行いであるかしれないのかしらね。ま、とはいってももちろん、そういった基礎的な身体の欲求が、たとえば衣食住といったそれぞれの文化を著しく発達させる要因にもなったとはいえるのでしょうし、ただ動物が原始的な姿で本能を満足させるのに比べ、人間はそこに知と精神を定着させることを可能にしたのだから、一概に人間の本能に係る文化が、そのほかの精神的行為に比して劣っているわけもないのでしょう。ただしかし、ま、そうね、人間の願望の最たる実現を夢想するならば、やはり身体の伴わない知的活動のあり方といった、どこかSF的な妄想を引き起してしまいがちであることは、それなり認めねばならないことではあるかしら。であるからグリードの存在とその意志するあり方も、なかなか暗示的で人間という存在のもつ願いの一端を具現しているものとはいえるのでしょう。こういう登場人物各々の示す象徴性といった点は、やはりこの作品はさすがね。なかなか見応えがあるかしら。」
「魂だけの存在になれたなら‥SFの文脈で行くと人類がサイボーグになれたなら、かな。これは古典的な人たちの好んだ空想のひとつであるにちがいないし、また昨今の唯脳論みたいにただ人類の不可思議を脳ってブラックボックスに投入することで満足しちゃう安易な精神的傾向からも容易に導き出せる人類の発展の可能性の絵のひとつなのかもしれない‥人は食欲や病気への不安、また性欲という問題‥この性欲というのが最大の鍵なのだろうけど‥に煩わされることがなくなって、人類の歴史上もっとも文明的な人間が誕生することになるのかなって、ちょっと空想する。‥魂だけの、物理的な身体の備わってない人間の形。‥でもこれを考えてくと、果して人間の身体がない人間を、人間といえちゃうのかなっていう定義的な問題がおのずと起ってくることは必至に思えるし、またそしてこれはすごくむずかしいのだけど、私は生理的な欲求を免れた精神がいったいどんなことを考えだすのかっていった部分が、なんだかよく考えられない。というのも、たとえばもし人類に不老不死が実現したならどんななるかなって問題があるとして、もう死ぬことも老いることもない不死の人がどんな生涯を送るのかって想定してみると、彼は死ぬことがないゆえに性を必要とせず‥性とは自身に代る存在を用意する欲求でもあろうから‥性を必要としないために他者を必要とせず‥異性愛にしろ同性愛にしろ、他者を求める心理の起点には性がある‥そして他者を必要としないがために、愛も、ない。‥と考えてくと、私には魂だけの存在に人間がなれたとき、その人間は何かを愛するといったことができなくなっちゃうのじゃないかなって、気がするかな。‥愛と性と死は、するとその意味では、生命の大いなる複雑な機構の言葉による象徴的な解釈であったともいえるのかもしれない。なぜなら私たちは死者に対してさえ愛をもつ。それは死者が他者であり、他者であるために愛しえた存在であるって可能性を信じるがためであり、そして私もまた死により全人類の他者となって、彼らに愛されることを無意識に信じるに違わない心理のためであろうから。」
「愛と性と死が人間が生まれ消えて行く過程の端的なシンボルとして機能しているか知れない、か。ま、たしかにその三つのうちのいずれかが欠けても、もう人は人ではなくなってしまう気がするかしらね。そしてそう考えるならば、アルもまた魂だけの状態で長くこの地上に留まっていたら、いつしか人間らしさを欠落させてしまうのでないかという不安も生じてくることになるかしら。それにアルの問題というのは、ま、これはいいにくいことなのでしょうけど、アルのような年齢の際に生理的欲求から乖離されてしまったなら、その人格とはいったいどういったふうになってしまうのかといったことが、まず何よりも懸念されてしまうのでしょうね。なぜならアルのような年代においてこそ、性というものが友愛に変化しうるものであるということ、それら二つが本質的に同じものであることを、身近に身体的に知る機会に何より恵まれるからなのでしょう。ま、願わくは、アルには一刻も早く肉体をとり戻してもらいたいかしらね。精神だけの存在というのは、なぜなら、奇怪でしかありえないとは、悲しくもいえてしまうことではあるのでしょうから。はてさて、ね。」
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東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate. 第六話「愚者の封書」