化物語 第7話~第8話
2009/09/01/Tue
「おもしろかった。「化物語」はきちんと毎回のテーマをしっかり精選して物語を構築してくれるから、そのドラマを鑑賞するに当っては何に集中して見たらいいかの判断が視聴者側としてはとてもやりやすいし、またそのエピソードに不必要な場面やよけいなキャラクターの登場が適宜削ぎ落されスマートに演じられてるぶん、本作が伝えようとしてるメッセージ性がぶれることなく表現されていて、その点でも非常に感心させられる一作かなって、私は思う。とくに今回の駿河のお話は、彼女がひたぎのことを好きでそしてひたぎの恋人である暦への憎しみや嫉妬の念を奇麗事で誤魔化さなかったとこに、人間性の暗黒面を直視せんとするこの作品の果断さが明瞭に示されてるように思われて、作品全体に緊張感とある種の、なんていうのかな、抽象的な話でキャラクターの本心を煙に巻くことのない潔さをみとめられて、なかなか本作は見どころあるものじゃないかなって、少しうれしくなっちゃった。というのも、好きな人が自分以外の人をえらんだという時点でそれは多大な苦しみであるだろうし‥失恋の重さ、辛さを理解することは、それを経た真率な人であろうなら、軽く扱えないものがあるだろうことは容易に了解せられることじゃなかろかな‥その失意が殺意に発展するだろうことも、決して大げさでない、ううん、むしろよくあることだろうことは、世間一般の事例と、そして己の記憶に照らしあわせてみて、合点の行くことじゃないかなって、私は感じる。なぜならだれかを好きになることは、その好きになった人以外を見捨てることでもあるのだから。そこまでいわずとも、それに似た意味性が「好き」という言葉にあることは、まちがいないことなのだから。」
「嫉妬という情は対等な関係性のうちに起るものだと、たしか三木清はいっていたものだったけれど、たしかに懸隔のあまりにある相手には、嫉妬の情は発生するはずもないのでしょうね。それはなぜなら嫉妬の原動力というものは「想像力」であるからであり、自分もまた妬ましいあの相手の「位置」にあれるだろうことを想定できるからこそ、嫉妬は生まれもするのよ。もしこれがまず絶対に自分が到達できない地点にいる相手だったのならば、自分がその場所にいることを頭に浮べることも不可能なのだから、というよりそういうことをそもそも思いもしないのだから、嫉妬は起ろうはずもないのでしょうしね。ま、嫉妬ほどイマジネイション豊かな情念もないといえるでしょう。そしてそれはイマジネイションであるからこそ、実に人間らしい感情であるのよ。困ったものでも、あるのでしょうけどね。」
「想像力、なのだよね。そしてむずかしいのは一般に想像力って呼ばれるものが、何も人間を成り立たせてる要素のうちで人間の善性をもっとも疑わしめる「嫉妬」のみでなく、ほかのいろいろな情念のなかにもそれらを成り立たせているその当のものとしてあるという事実なのであり、たとえば「愛」こそは相手の身を思いやる心があってはじめて可能であるということは、だれもが納得されることにちがいないのだものね。だからそう考えてくと、「愛」も「嫉妬」も、一見して相反する二つの情念のように見えるこれらだけど、でもそれらを成立せしめてる基底に果して何が潜んでるのかなって考えるなら、疑いなく「愛」も「嫉妬」も孤独な個人の胸中で繰り広げられる「想像力」のもたらした産物であるのであり、そしてそこに「嫉妬のうちにある愛」の存在と、「愛のなかに眠る悪魔」の存在の厳然とした可能性を、私たちは思い知らされる。‥嫉妬も愛も想像力の仕業であるのなら、その双方が同じものの裏表であることは明らかなのだよね。なら問題は、想像力の使い方、それそのものにこそある。そして本エピソードは、まさにそこに焦点を当てて描かれた。すばらしい出来だったかな。よかった。」
「駿河はひたぎにも暦にも告白することの叶わない無意識の海のなかで、ろくに知りもしない暦の死を願った。そして暦はろくに知りもしない後輩である駿河の心中を勝手に想像し、その思いやりから自分が犠牲になることを意識的に選択した。はてさて、この両者は共に自己本位な想像力を駆使し、自身の行末を見定めたものといえるのでしょうけど、ただその発露の仕方は各々異なったものとなり、またそれから受ける印象もよくちがったものになったのは、なぜなのでしょうね。想像力とは、であるから、まったく恐ろしい力というべきでしょう。そしてなんてすばらしい能力だともいえるかしら。不思議なものよね。同じ力なのに、同じ人間なのに。はてさてよね。本当に。」
『自信がないことから嫉妬が起るというのは正しい。尤も何等の自信もなければ嫉妬の起りようもないわけであるが。しかし嫉妬はその対象において自己が嫉妬している当の点を避けて他の点に触れるのが常である。嫉妬は詐術的である。』
三木清「人生論ノート」
「嫉妬という情は対等な関係性のうちに起るものだと、たしか三木清はいっていたものだったけれど、たしかに懸隔のあまりにある相手には、嫉妬の情は発生するはずもないのでしょうね。それはなぜなら嫉妬の原動力というものは「想像力」であるからであり、自分もまた妬ましいあの相手の「位置」にあれるだろうことを想定できるからこそ、嫉妬は生まれもするのよ。もしこれがまず絶対に自分が到達できない地点にいる相手だったのならば、自分がその場所にいることを頭に浮べることも不可能なのだから、というよりそういうことをそもそも思いもしないのだから、嫉妬は起ろうはずもないのでしょうしね。ま、嫉妬ほどイマジネイション豊かな情念もないといえるでしょう。そしてそれはイマジネイションであるからこそ、実に人間らしい感情であるのよ。困ったものでも、あるのでしょうけどね。」
「想像力、なのだよね。そしてむずかしいのは一般に想像力って呼ばれるものが、何も人間を成り立たせてる要素のうちで人間の善性をもっとも疑わしめる「嫉妬」のみでなく、ほかのいろいろな情念のなかにもそれらを成り立たせているその当のものとしてあるという事実なのであり、たとえば「愛」こそは相手の身を思いやる心があってはじめて可能であるということは、だれもが納得されることにちがいないのだものね。だからそう考えてくと、「愛」も「嫉妬」も、一見して相反する二つの情念のように見えるこれらだけど、でもそれらを成立せしめてる基底に果して何が潜んでるのかなって考えるなら、疑いなく「愛」も「嫉妬」も孤独な個人の胸中で繰り広げられる「想像力」のもたらした産物であるのであり、そしてそこに「嫉妬のうちにある愛」の存在と、「愛のなかに眠る悪魔」の存在の厳然とした可能性を、私たちは思い知らされる。‥嫉妬も愛も想像力の仕業であるのなら、その双方が同じものの裏表であることは明らかなのだよね。なら問題は、想像力の使い方、それそのものにこそある。そして本エピソードは、まさにそこに焦点を当てて描かれた。すばらしい出来だったかな。よかった。」
「駿河はひたぎにも暦にも告白することの叶わない無意識の海のなかで、ろくに知りもしない暦の死を願った。そして暦はろくに知りもしない後輩である駿河の心中を勝手に想像し、その思いやりから自分が犠牲になることを意識的に選択した。はてさて、この両者は共に自己本位な想像力を駆使し、自身の行末を見定めたものといえるのでしょうけど、ただその発露の仕方は各々異なったものとなり、またそれから受ける印象もよくちがったものになったのは、なぜなのでしょうね。想像力とは、であるから、まったく恐ろしい力というべきでしょう。そしてなんてすばらしい能力だともいえるかしら。不思議なものよね。同じ力なのに、同じ人間なのに。はてさてよね。本当に。」
『自信がないことから嫉妬が起るというのは正しい。尤も何等の自信もなければ嫉妬の起りようもないわけであるが。しかし嫉妬はその対象において自己が嫉妬している当の点を避けて他の点に触れるのが常である。嫉妬は詐術的である。』
三木清「人生論ノート」