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2009/10/09/Fri
「あいもかわらずの内容かな。ただちょっと苦しくなってきたみたい。というのもこの「生徒会」シリーズは気軽な雑談を主な内容とすることをアピールポイントのひとつとしてるように見受けられるけど、でもかんたんに雑談してればいいというシンプルな内容は、実は創作においては非常に高度なレベルを要求するにちがいないハードルであるからであって、それはたとえば少し図書館に行って世界の文学全集なりなんなりを紐解いてみればすぐにわかることと思う。つまりそれはどういうことなのかなっていうと、文学というのは会話なのであり‥読書とは著者と対話することであるって言葉は、三木清をはじめ、多くの賢人が指摘するところ‥そして人がこの世界で生きてくっていうことは、とどのつまり、会話をすることイコール言語の只中を過してゆくことであるからなんだよね。‥戯曲ならなんでもそうだけど、例としてシェイクスピアなどを開いてみるなら、そこに書かれてあるのは延々とした台詞の連なりであることにはだれであれ気づかれるでない。そしてそれが示すことは人間と人間の関係といったものは、ふつうな延々たる地道な会話であるということであるのであり、人が人を理解するということは根気よく会話しつづけることでもある。‥だから会話というのはむずかしい。これをあえてテーマに据えて執筆に挑んでる「生徒会」シリーズは、私にはけっこう果敢な意欲作のようにも映るけど、でもそれに内容面の充実がついてきてるかなって考えると、その評価は微妙になっちゃうのは致し方ないことかな。もちろん、きびしいことではあるのだけど。」
「会話の題材がオタク的なものばかりではそのうち手詰りになるのは目に見えていたのではあったのでしょうけどね。ま、むずかしいのよ。なぜなら会話というものは、その場限りの表面的な類のものをべつにすれば、小手先のテクニックが通じるものではないのであり、いわゆる会話術なんてものは気休め以上のものではないからよ。それは会話が人間そのものの立ち表れであるからであって、会話は個人の感性や知性をありのままに表現するものであるからでもある。‥ま、twitterなど見ていても、長期的に継続して行われる発言の集積は、その個人そのものを照らし出すのよね。これは言語の不思議な特質でもあるとはさていえるかしら。」
「会話が娯楽になるというのも、そういったふうに人間性が言葉のやりとりから感得されるようになってくるからとも、もしかしたらいえるのかもしれないね。‥たとえばプラトンが見事に描いてるとおり、古代ギリシアでは討議は魅力的なエンターテイメントであったのであって、西洋において会話は伝統的に楽しい時間の過し方であったことは理由のないことでなかった。その点日本に行くと、会話の愉悦といったものは残念ながら近代に下るにつれ失われていったようで‥この間の事情を田中先生はおもしろく述べてる(→
田中美知太郎「プラトンに学ぶ 田中美知太郎対話集」)‥純粋な対話の娯楽性といったものを、日本人はなかなか見落しがちじゃないかなって気もしてくるかな。‥本作についていうと、本編内でなされる会話があまりおもしろくないかなって感じられちゃう原因の大部分は、話を上手にふくらませることができてないからかもって、私は感じる。オタクネタなども、ただの一発ネタで終っちゃってるんだよね。それはよろしくない。もっとさまざまに話題を広げていけないものかな。キャラクターは魅力あるのだから、あとは会話の仕方だと思う。本作をさらに映えさせるためには。」
「ひとつのエピソードをなんとなく良い話っぽく締める傾向もはてさてといったところだし、かといってシリアスなドラマのほうが魅力に富むかといえばそれほどでもないし、ま、けっこう限界っぽいのよね、この作品は。しかしとはいっても本巻における椎名姉妹のエピソードなど、キャラの魅力が活かせるドラマならまだまだおもしろさはあるのだから、なんとかならないものかと期待は捨てきれないのよね。とくに真冬なんて実に怠惰で人間らしさがあってなんともいえない魅力があるのだから、雑談の部分でも、そういったキャラクター性がより強くアピールされるようになればいうことなしかしら。‥ま、これ以降どうなることか、ひとつ期待といきましょうか。」
葵せきな「生徒会の月末 碧陽学園生徒会黙示録2」