長い夢を見た。夢の内容は私が高校生の頃で、たぶんあれは軽音部のいつもの活動だったのだろう。私がいて澪ちゃんがいてりっちゃんがいてムギちゃんがいてあずにゃんがいる。みんなで何をしていたのか、どんな話をしていたのか、細かいところは覚えてない。うっすらと靄がかかったように、ただみんなと一緒にいる自分の姿が見とめられる。夢というのはいつもそうで、夢を見ている最中は現実にも劣らないほど実感が持てるのに、いざ目覚めてその出来事を思い出そうとすると、たちまち霧散しちゃう。だから私は夢の中身を詳しく話すことができないけど、でも軽音部のみんなといた夢がどことなく悲しい哀調を秘めていたことは、しっかり記憶してるんだ。…もちろん私たちは今でも友だちで、これからもいつでも会えるし、悲しい気持ちになる必要なんてぜんぜんないのかもしれないけど、ただかつてのように毎日のように集まってみんなでお茶することはないんだなって思ったら、どうしても悲しい気持ちを免れることが私はできなかった。…でも、だからといって、もし神さまや誰かが、あなたは楽しかった高校時代に、過去に戻りたいですかって聞かれても、私は、たぶんちょっとだけ迷うけど、でも最終的には首を横に振ると思う。それはなぜかというと、私は今を大切にしたいって思うから。…澪ちゃんに告白した自分を大切にしたい。ストリートでギターを弾いたことを大切にしたい。高校を卒業して、大学に入って、それから生きてきた自分を大切にしたい。そして、ふられちゃったけど、そのことも含めて、私は私の生きた時間を愛しく思う。喜びも、悲しみも、悔いも、私はすべてを愛しく思う。
「……もう、あんな寒いところで寝てたら、風邪引いて当たり前だよ。」
澪ちゃんの声がする。うっすらとまぶたを開くと、心配そうな顔をした澪ちゃんが私をのぞきこんでいる。
「唯、起きた? …大丈夫? のど渇いてない?」
「あー…澪ちゃん? 私、澪ちゃんにふられちゃったんだぁ…」
「…うん。」
「私、嫌われちゃったのかなぁ…」
「…そんなことないよ。ちがうんだ、唯、あのね――」
「澪ちゃん…」
「…何?」
「お水、飲みたい。」
そういうと澪ちゃんはわかったといって、コップに水を注いで持ってきてくれた。私は起き上がりそれを受けとろうとするけれど、自分でも思っていた以上に頭が重くてふらりと揺れる。それを見た澪ちゃんが慌てて私の肩を抱いてくれて、私を支えながらコップを手渡してくれた。それから水を飲むと、だんだんとぼやけていた意識がはっきりしてくる気がした。頭の痛みも急に自覚されてくる。
「うー…なんだかぼんやりするよぅ…」
「うん。あとで病院に行こうね。もう少ししたら憂ちゃんが来るから。そしたらタクシーで行こう。」
「病院いやだよぅ…」
「そういわない。…さ、横になって。もうちょっと寝ようね。」
澪ちゃんはそういうと毛布を私の上に被せた。私はろくに動くことができず、澪ちゃんのされるがままに布団に横たわる。…かちこちと、時計の音が聞こえてくる。カーテンから木漏れ日が差している。空調の鈍い断続的な音がする。今、何時なのだろうと私は思った。今日は何日なのだろう、私はどれくらい寝ていたのかなとも気になった。…でもそういったことよりも、隣に澪ちゃんがいてくれるかどうかが気になった。
「澪ちゃん、行っちゃやだ…」
「どこにも行かないよ、唯。」
「…でも、澪ちゃんはいなくなっちゃう。そうなんだ…」
私は風邪を引いていたから、いつもより気弱になっていたのだろうか。それともさっきまで見ていた夢が、私の気持ちを寂しくさせていたのだろうか。そろそろと澪ちゃんのほうに向かって、私は手を伸ばそうとした。すると澪ちゃんは私の手をすぐにやさしく握ってくれた。拒絶されるかもしれないと、一瞬、私は澪ちゃんが別れようといった夜みたいに怖くなったけれど、そんなことはなく、澪ちゃんはベッドの脇に、私のすぐ側にいてくれて、ずっと手を握ってくれていた。片時も私から離れることはなかった。
「いなくならない…?」
「いなくならないよ。…ねえ、唯。私が唯と別れようっていったのも、本心からじゃないんだ。本当はずっと唯といたいんだ。恋人で、いたいんだ。」
「じゃあなんで出て行っちゃったの? 別れるって、いったの?」
「…怖かったんだ。私じゃ、唯に釣り合わないって思ったんだ。…私、夏に唯を一人ぼっちにしちゃったし、唯が言葉に出せない悩みを、私に嫌われてるんじゃないかって不安を抱えていたのを、私は気づいていたのに、踏み込むのが怖くて、唯と真剣に向き合って中途半端な自分がばれて、それで唯に嫌われるかもしれないって怖くて、私は、逃げていたんだ。…そのことを和に怒られてね、自棄になっていたんだ。がんばってる唯に比べて、私はなんてだめな奴なんだろうって。…本当に、今さらだけど、もう唯に呆れられてもしかたないけど、でも私…」
「澪ちゃん…」
「唯が好きなんだ…!」
澪ちゃんは私の手をぎゅっと握って、真っ赤になって、真剣に、そういってくれた。私はその言葉を聞くと、自分でも不思議だけど、まず最初に安堵の気持ちがあふれるのを感じたんだ。ほっとため息をついて、よかった私は澪ちゃんに嫌われてないんだって、肩の力が抜ける気がした。これまで私の心を重くしていた影が消えていくようだった。
「私も…」
「…唯。」
「私も、澪ちゃんのこと好きだよ。内気で、臆病で、奥手で、ちょっと面倒くさくて、なかなか素直になってくれないけど、でも、そういうところ好きだよ。私のことを好きっていってくれる、澪ちゃんが、私はうれしいよ。」
「…ありがとう。」
「ね、キスして。」
私がそう呟くと、澪ちゃんはさらに真っ赤になって、汗まで流し始めた。その様子は風邪で寝込んでいる私と大差ないように思えるほどで、私はそんな澪ちゃんの純真な姿に笑っちゃう気がした。
「な、なんで……?」
「憂がキスで風邪が治るって前にいってた。だから、して。」
「へ、そ、そんな…」
「私とキスしたくないの?」
「い、いや、そういうわけじゃないけど…」
「りっちゃんとはキスしたのに、私とはできないんだ…」
「そ、そのことを今持ち出すの!? …も、もう! 本当にしちゃうからな、唯!」
私の言葉に奮起したのか、澪ちゃんはそろそろと身を屈めて、私の顔に近づいてくる。私は澪ちゃんの黒くて長い髪、端正よく整った顔、恥ずかしさを堪えてる表情、汗、匂い、澪ちゃんの存在感を瞳に収めると、静かに目をつむった。…澪ちゃんからキスしてくれる、うれしいなと思ったら、もうすでに、私の唇に淡い感触があった。ほんの一瞬のキスだったけど、私の鼓動は限りなく早く、熱く、私の心をとろけさす。目を開けると、照れた顔の澪ちゃんがいる。私は自然に笑顔になった。
「やった…。うれしいなぁ…」
「も、もう…」
と、そのとき、がちゃんと澪ちゃんの背後で扉の開く音がした。ベッドに寝込んでいた私からは見えなかったけれど、たぶん憂が来たのだと思う。澪ちゃんは慌てて立ち上がった。
「う、憂ちゃん…。い、いつからいたの…?」
「か、風邪で弱って身動きできないお姉ちゃんを、む、無理やり澪さんが犯してるときからです…!!」
そのあと澪ちゃんと憂のどたばたしたやりとりがあったみたいだけど、すぐ眠りに落ちた私は何も気づくことはなかった。ただ口元のやさしい感触と印象があるばかりだった。こんなに穏やかな、満ち足りた、温かい気持ちで眠るのは久しぶりに思えた。身体をだるくする熱さえ、今の私には少し心地良い気がするのだった。