彼女が笑っていれば、それでいい。私は幾度もそう感じてやむことがなかった。彼女の願いが聞き届けられれば、その想いが無事に伝えられればと、私は心から祈っていたのだ。私はそれでよかったのだ。彼女を苦しませるのが、ただ嫌だったから。
病室で泣きじゃくる私の手を握ってくれたのはことりだった。幼い私の家族だった。私にそばにいてくれるのは、彼女だった。私はしょせん人好きのする人間ではない。愛想のないことは疑うことないし、だれとも積極的な関係を築こうとしたことのない日々を送ってきた。その過去を後悔するかときかれれば、私は黙って首を振る。私はただ私なりに生きてきただけなのである。私は私以外を生きられなかったし、また、生きる気もなかった。それは妥協を許さない理性の結果か、はてはただ無頓着なだけなのか、私ははっきりと答えることはできない。唯一たしかなのは、私は最終的にはひとりきりになったということだけだ。そのことが間違いの証明だといわれれば、そうなのだろうと、私は思う。
孤独であるということはひとつの慰藉であり、私の孤独はそれであった。つまり、生きるということは途方もなく真剣なことなのだという真理を、私は受け容れがたく感じたのだ。おそらく生来の臆病さのため。
そしてその臆病さが、私の現在を形作っている。
家族の悉くを亡くし、病室の窓から深々とふりゆく雪を眺めていたとき、私の精神は私のよるべなさを痛烈に自覚した。
もはや今の世界に私のすがるところはないのだという恐怖が、忽然と起こったのである。
もちろん、家族が――父と母の二人だけ。彼らもまた世間と没交渉の点に関しては、私と大差ないものであった。私の根本的な性質はこうした血統的な面もあるのだろう――まだ存命だったとき、私が彼らを精神の支柱に据えていたということはない。私は暖かい家族の光景とはもっとも遠いところにいる人間のひとりだからだ。私は彼らに干渉しなかったし、また彼らも私に触れようとはしなかった。お互いがお互いをさほど重きをおかず、さりとて蔑ろにするでもなく、乾いた空気のような、安逸な雰囲気が私たちの家庭の著しい特徴であった。私は他人の家族の光景を、それほど多く見たわけではないが、私たち家族がよほど冷淡なのだろうなということは、それとなく知れた。もちろん陰湿な感情のもつれや、悪意ある視線があったわけではない。逆にそういった人間的な要素が私たちには欠けていたのだ。深い喜びもなければ、深甚な悲しみもない。淡々とした私たちの生活。綻びのない、ゆるやかな毎日。だからそれが崩壊したときも、私は存外に無感動だった。
そういった事実を、私は今、無感動に追憶する。それは事実としてあっただけで、私は自分の前半生になんらの感想もなかった。このまま死ぬまで淡々としてるのだろう。それはそれでよい。わるいことじゃない。私はそう信仰していた。生きることなど、結果的に死ねるならば、それは有難いことなのだ。
ぷつん、と、そう呟いたとき、私の頬を涙が伝った。
私は嘘吐きだった。
手が震え、シーツがくちゃくちゃになり、いつしか嗚咽がこみ上げていた。私は自分を抑えることができなく、無様に泣いた。何が悲しいのかとか、私は何を望んでいたのだろうとか、いろいろな言葉が私の頭をめぐりゆくが、私はそれら空虚なものに、さらに胸を抉られるような気がした。
雪が深々と降る。だれも私のもとを訪れない。
「夜、眠られないんですか……?」
ことりの小さな手を、綾の細く繊細な両手がぎゅっとつかんで離さない。もう彼女の様子は大分収まっていたが、それでもことりの手を離そうとする素振りさえなかった。ことりは握られたまま、ぼんやりと綾の姿を眺めている。綾は顔をうつむき加減に――ことりの顔をとても見れそうにない――ベッドの上でまだわずかに震えている。
「ひとりぼっちで、いるの、怖いですか…? この部屋で綾さん、夜もずっといるんですよね。なら、それかな…。私もこんなところでひとりだと、きっと怖いと思います。でも、だから…綾さん…」
たどたどしく、ことりは言葉を重ねた。頬を染めて、泣きはらした綾の様子を直視するのは、どこか後ろめたさがあった。しかしそれといっしょに、震える綾が自分を掴んで離さないという状況に、戸惑いと、あるいはそれ以上の緊張……を、ことりは感じていた。
綾はもう落ちついた様子だった。それで言葉を切り出そうとしているのがありありと見て取れた。ことりは黙っている。綾はいうまでもなく、滅茶苦茶に泣き乱れた自分に困っていた。そして、ゆっくりとことりと手を離した。
「あ…」
「ことり……」
「な、なんでしょう?」
「また…、私のところに、会いに、来てくれる…?」
「は、はい! もちろんです!」
それが精一杯の勇気であった。ことりの元気な返事は、綾の不安を少し拭ってくれた。
ことりを引き取ってくれた老人の名を木崎という。綾の父親の恩師――彼は人付き合いのほとんどなかった父の数少ない例外のひとりだった――の無二の友人として、木崎は綾に知られていた。彼は学生時代、父の恩師と同級であり、その後事業を起こし、一財産を築いた。妻との結婚は政略的なものだったが、二人の相性はよく、子どもに恵まれなかった点を除いて、夫婦の関係は三十年を過ぎた今も穏やかなものだった。
すでに一線を退き、夫婦ともに悠々自適の生活を送っていた二人が、小学生になったばかりの子どもを引き取ろうと決意したのは、同情のみばかりでなく、そこにある種の慰めを見出したことは疑いなかった。彼らは強く、そして十分愛情豊かな人間である。時間もあれば、金も豊富すぎるほどであった。彼らのもとで三年弱を過ごしたことりは、目に見えて明るく、だれにでも好かれるであろう魅力をもつ、すばらしい子であると、綾は思った。これがことりの本来の気質なのであろうと、綾は考える。彼女が聞き知っていたことりは、話だけだったが、とてもこんなに笑えるような子でなかったから。
ことりの父親――綾の父親の弟がどういう人間だったか。そのことに関しては綾はさほど興味もなく、また知りたいとも思わなかった。ただ彼がことりと引き換えに妻を失い、その空虚さを埋めるべく仕事に没頭し、ことりに対して疎遠になった――という出来事を想像するのみである。よく小学校に入学するほどにまで育てたものだと感心するほどだ。綾の両親は、彼に対しても一定の距離以上に接近しようとはせず、綾にしては言わずもがなであった。であるから、ことりの父親が自殺したとき、綾が感じたのはそういうこともあるだろうな、という一言のみであった。彼は遺書も何も残さなかった。日記の類はすべて破棄されていた。彼の心情を知るようなことができるものはなく、彼をよく知っているはずの同僚たちはことごとく口をつぐんだ。ただ、沈黙した無表情な娘だけが残った。ことりは泣きもしなければ、笑いもしなかった。
木崎老人が通夜でことりを見かけたとき、彼は少女を引き取るべく運命を感じたのかもしれない。この子をこのまま放っとくことはできぬ。老人の判断は正しかったかどうか。少なくとも、彼がいなければ、綾はことりに救われなかった。そして、ことりのために綾が滅びることもなかった。
「君の調子はどうかね。もう、よほどいいのか。」
木崎老人が見舞ったとき、外には桜が舞っていた。
「はい。もうほとんど。」
「そうかね。それならよろしい。ことりは今日は来たかね?」
「はい。学校の、いろいろな話をしてくれました‥」
「そうか…。あの子はあんたのことが好きなようだ。」
「ことりは…素敵に笑ってくれます。」
「笑う、か…。ふん。さいしょはああも素直に笑ってくれるもんでなかった。」
「……」
「私には子どもがもとからなかったからね。ほんとにさいしょは難儀したものだった。もちろん、みずから望んだ苦労だったし、それは有難い体験でもあったが…。この齢でも、なあ、いろいろ新しいことはあるものだよ、綾さん。」
「あの子は…」
「うん?」
「あの子は、平気なのでしょうか……」
「それはだれもわからん。ただ今でも、堅苦しいとこはあるなあ。あんたに対してもそうだ。私に対してもそうだ。だれに対してもそうかもしれん。学校の先生が連絡帳に書いてくれるんだよ。だれとも仲良いが、とくにだれとも親しいわけじゃないってね。」
綾は目を伏せた。木崎はにやりと笑った。
「あんたもそろそろ退院だろう。しばらくは、私の屋敷で養生するがいい。ことりも喜ぶ。ことりは、ほんとにあんたが好きなようだからね。」
「それは、ほんとう、でしょうか。」
「好かれてる自覚がないかね? それならそれでよろしい。……あんたは、綾さん、あんたはあんたの親父のようになってはいかんよ。好かれるのを怖がっても、望みすぎてもいかん。ま、大事になさい。」
世界というのは、よくわからない。
自分が見ているものがすべてだと思えば、その背後では何がどう展開しているのか、途方もつかず、私は私のちっぽけさを自覚するのみのように思われる。
綾はベッドの上でまんじりともせず、夜の月灯りに映る桜を、窓から眺めていた。暗く蒼く伸びる空。物音ひとつない深更。意識されるのはそこにあるだけの自分の姿。
これまで自分はどうやって生きてきたのだろうかと、綾は自問した。が、その考えはおそろしく無意味であるとも思った。数え切れない過去を捨ててきた気もするし、これから数え切れない未来が私を圧し潰そうとしているようにも感じられ、しかし事実はそのどちらでもなく、私の現在は、流露する涙の如く、こぼれ消えてゆく。
ただ、それでもひとひらの心情が、綾を現実へと直面させていた。現実から逃げ出そうとすることなく、まだ私はがんばらなくてはならないと、綾は感じていた。
「私は、ことりの味方でいたい……」
その言葉は単純であり、そして思いは一途であった。
綾は、いつからか、真剣になろうとしていた。
・あとがき
二〇〇七年六月二十三日に書いた作品です。途中で放置しているもののひとつ。