なぜ人を殺してはいけないか
2010/09/13/Mon
「7巻収録の117卵生のエピソード冒頭は、何かにつけてみっちゃんを話題にするひとはがいて、それを見ると、もうひとははいつもみっちゃんのことが気になってるんだから!って思わざるをえなくて、幸せな気持になれるんです。」
「いや、なれるんですといわれても‥」
「普段はみっちゃんに意地悪したり素っ気なくしてるけど、実際はひとははみっちゃんのことが大好きなんです。‥あ、私はいつもみっちゃんとひとはのことばかり話題にしてるように見えるかもだけれど、ふたばのことも私は相当気に入ってる。ほんと。もし「みつどもえ」でいちばん好きなキャラはだれ?って聞かれたら、不覚にもふたばかなって答えてしまいそうになるくらいには、好きです。」
「あ、そう‥。いや、べつにいいけれど。」
「‥さて、恒例のみつどもえの話題もしたところで、今日の話題なのだけれど、世のなかには「なぜ人を殺してはいけないか?」って問題があって、これ自体は屁理屈をこね回す小学生でも適当なことがいえる類の問題ではあるんだけど、でもここ最近ふとこの問題について、私はどう答えるかなっていうことを考えていた。」
「みつどもえからまた急転直下、話題ががらりと変わることね。ま、構わないけれど。」
「哲学的な問題として、また倫理的、あるいは文学的な問題として、なぜ人を殺してはいけないか?に答えた例は枚挙に暇がないくらいたくさんある。ぱっと思いつく限りでは、遠藤周作は何かにつけこの類の問題を描きつづけたようにも思うし、時折日本で話題になる人気のある‥といっていいのかな、とにかくよく知られたニーチェもこの種の問題では槍玉に挙げられる筆頭だろうと思う。‥ニーチェに関して、人殺しの是非を鮮明に叙述したものとして、「これがニーチェだ」はすぐ思い浮ぶ。良書といっていいと思う。私もおもしろく読んだ記憶がある。」
「その本たしか誰かに貸したあと、結局、返ってこなかったのよね。いや、ま、すごく私的な話題だけれど。」
「そのうち買いなおさなきゃ。‥と、話を戻して。‥なぜ人を殺してはいけないか。先に挙げたとおり、この問題に対する解答はいくらでもあるし、またネットを見渡してもそれなりの考えが見受けられることだろうと予想する。でもここではとりあえずそういった諸々の意見は置いておいて、ごく個人的な思いを述懐すると、つまり私が「なぜ人を殺してはいけないか」に率直に自分の本音を語るとなると、それは次のようになると思う。すなわち、人を殺してもいい、と。」
「また誤解されそうな断言めいた文句ね、それ。」
「順を追って話してく。といってもそれほど複雑なものじゃないけど。‥私は「なぜ人を殺してはいけないか?」に対し、人を殺していけないわけがない、と答える。人を殺したところで、最悪のところ、自分が死刑になる程度だったら、殺してもいいんじゃないかって私は思う。もしこれが私が死刑になるだけじゃ済まなくて、一族郎党皆殺しだーとか、殺人者が出た地域は核爆弾落してさっぱりしてやるとか、そういった刑罰が降りかかるのでないなら、人を殺してもいいんじゃないかな、と思う。‥と、こんなふうに、極端な言い回しをすると次の事実に気づくはず。すなわち人殺しが悪となるとは、ある共同体における規範の問題に過ぎない。別な言い方をすれば、人殺しの是非はある限定された共同体内部における倫理的課題としか了解されえない。」
「なぜ人を殺してはいけないか?に対する答えが往々にして奇妙な修辞に終るのは、「人殺しが悪である」という前提があるからで、その前提をどうにか肯定せねばならないと躍起になるからでしょうね。ま、この前提はある意味錯覚や幻想、または偏見といった言葉で置き換えることが可能かもしれないでしょうけど。」
「現実問題として、世のなかには答えが出ない問題が存在している。いいかわるいか、正しいか正しくないか、○か×かでは割り切れない問題群というものが厳然として存在している。これは当り前といえば当り前なのだけれど、でもこのことが自分の見方、考え方に自然にはまっているかどうか、備わっているかどうかというちがいは実に大きい。というのも、もしこの世には決着がつかない問題が存在しているという見方を納得しない場合、次の二つに人間の型は分かれるから。そしてその二つの型は世に多く見受けられるように思うから。」
「一つは過度な真理の信奉者、もう一つは真理など存在しないのだからとアイロニカルに相対主義、懐疑論を振り回す人々、といったところかしらね。」
「‥と、いくつか雑駁に話してみたけど、まだこのエントリでは「なぜ人を殺してはいけないか?」に対する「だから人を殺してはいけないだろう」ということを語ってはない。でもその論理は非常にシンプルなので、それをいうこと自体はむずかしくない。‥それすなわち、人間は自分の敵は殺してもよいと思う傾向にある、というもの。‥ごく個人的な殺人や、または戦争やそれに準じる防衛などにおける殺人の肯定は、とても乱暴にいえば、敵は殺してもやむをえないって発想がある。そして、であるからこそ、「敵をなくすにはどうすればいいか、私が私の敵をなくすにはどうすればいいか、あるいは最小限に少なくするにはどうすればいいか、そして究極的には、私が世界を私の味方につけるにはどうすればいいか?」という問題が生まれ、検討された。私はここにある古典的な知恵の真髄が潜んでいると考えるのだけれど、それを話すとただでさえ乱雑なエントリがさらに混沌となっちゃうだろうから、このエントリはここでおしまい。」
「その問題を推し進めていくと、まず頭に浮ぶものとして聖書があるでしょうし、各種倫理の問題がいろいろと浮んでくる。しかし、ま、それを縷々考えるのは大変な仕事でしょうね。ただ人殺しの是非を問うということは、その人の心の奥をざらっと擦るようなものがあるようには感じられる。それは誰しもが一度は考えたことのある問題だからかしら。ま、はてさてね。」
「いや、なれるんですといわれても‥」
「普段はみっちゃんに意地悪したり素っ気なくしてるけど、実際はひとははみっちゃんのことが大好きなんです。‥あ、私はいつもみっちゃんとひとはのことばかり話題にしてるように見えるかもだけれど、ふたばのことも私は相当気に入ってる。ほんと。もし「みつどもえ」でいちばん好きなキャラはだれ?って聞かれたら、不覚にもふたばかなって答えてしまいそうになるくらいには、好きです。」
「あ、そう‥。いや、べつにいいけれど。」
「‥さて、恒例のみつどもえの話題もしたところで、今日の話題なのだけれど、世のなかには「なぜ人を殺してはいけないか?」って問題があって、これ自体は屁理屈をこね回す小学生でも適当なことがいえる類の問題ではあるんだけど、でもここ最近ふとこの問題について、私はどう答えるかなっていうことを考えていた。」
「みつどもえからまた急転直下、話題ががらりと変わることね。ま、構わないけれど。」
「哲学的な問題として、また倫理的、あるいは文学的な問題として、なぜ人を殺してはいけないか?に答えた例は枚挙に暇がないくらいたくさんある。ぱっと思いつく限りでは、遠藤周作は何かにつけこの類の問題を描きつづけたようにも思うし、時折日本で話題になる人気のある‥といっていいのかな、とにかくよく知られたニーチェもこの種の問題では槍玉に挙げられる筆頭だろうと思う。‥ニーチェに関して、人殺しの是非を鮮明に叙述したものとして、「これがニーチェだ」はすぐ思い浮ぶ。良書といっていいと思う。私もおもしろく読んだ記憶がある。」
「その本たしか誰かに貸したあと、結局、返ってこなかったのよね。いや、ま、すごく私的な話題だけれど。」
「そのうち買いなおさなきゃ。‥と、話を戻して。‥なぜ人を殺してはいけないか。先に挙げたとおり、この問題に対する解答はいくらでもあるし、またネットを見渡してもそれなりの考えが見受けられることだろうと予想する。でもここではとりあえずそういった諸々の意見は置いておいて、ごく個人的な思いを述懐すると、つまり私が「なぜ人を殺してはいけないか」に率直に自分の本音を語るとなると、それは次のようになると思う。すなわち、人を殺してもいい、と。」
「また誤解されそうな断言めいた文句ね、それ。」
「順を追って話してく。といってもそれほど複雑なものじゃないけど。‥私は「なぜ人を殺してはいけないか?」に対し、人を殺していけないわけがない、と答える。人を殺したところで、最悪のところ、自分が死刑になる程度だったら、殺してもいいんじゃないかって私は思う。もしこれが私が死刑になるだけじゃ済まなくて、一族郎党皆殺しだーとか、殺人者が出た地域は核爆弾落してさっぱりしてやるとか、そういった刑罰が降りかかるのでないなら、人を殺してもいいんじゃないかな、と思う。‥と、こんなふうに、極端な言い回しをすると次の事実に気づくはず。すなわち人殺しが悪となるとは、ある共同体における規範の問題に過ぎない。別な言い方をすれば、人殺しの是非はある限定された共同体内部における倫理的課題としか了解されえない。」
「なぜ人を殺してはいけないか?に対する答えが往々にして奇妙な修辞に終るのは、「人殺しが悪である」という前提があるからで、その前提をどうにか肯定せねばならないと躍起になるからでしょうね。ま、この前提はある意味錯覚や幻想、または偏見といった言葉で置き換えることが可能かもしれないでしょうけど。」
「現実問題として、世のなかには答えが出ない問題が存在している。いいかわるいか、正しいか正しくないか、○か×かでは割り切れない問題群というものが厳然として存在している。これは当り前といえば当り前なのだけれど、でもこのことが自分の見方、考え方に自然にはまっているかどうか、備わっているかどうかというちがいは実に大きい。というのも、もしこの世には決着がつかない問題が存在しているという見方を納得しない場合、次の二つに人間の型は分かれるから。そしてその二つの型は世に多く見受けられるように思うから。」
「一つは過度な真理の信奉者、もう一つは真理など存在しないのだからとアイロニカルに相対主義、懐疑論を振り回す人々、といったところかしらね。」
「‥と、いくつか雑駁に話してみたけど、まだこのエントリでは「なぜ人を殺してはいけないか?」に対する「だから人を殺してはいけないだろう」ということを語ってはない。でもその論理は非常にシンプルなので、それをいうこと自体はむずかしくない。‥それすなわち、人間は自分の敵は殺してもよいと思う傾向にある、というもの。‥ごく個人的な殺人や、または戦争やそれに準じる防衛などにおける殺人の肯定は、とても乱暴にいえば、敵は殺してもやむをえないって発想がある。そして、であるからこそ、「敵をなくすにはどうすればいいか、私が私の敵をなくすにはどうすればいいか、あるいは最小限に少なくするにはどうすればいいか、そして究極的には、私が世界を私の味方につけるにはどうすればいいか?」という問題が生まれ、検討された。私はここにある古典的な知恵の真髄が潜んでいると考えるのだけれど、それを話すとただでさえ乱雑なエントリがさらに混沌となっちゃうだろうから、このエントリはここでおしまい。」
「その問題を推し進めていくと、まず頭に浮ぶものとして聖書があるでしょうし、各種倫理の問題がいろいろと浮んでくる。しかし、ま、それを縷々考えるのは大変な仕事でしょうね。ただ人殺しの是非を問うということは、その人の心の奥をざらっと擦るようなものがあるようには感じられる。それは誰しもが一度は考えたことのある問題だからかしら。ま、はてさてね。」