Le grand désert d'hommes #2
2011/11/10/Thu
お金を節約するためといって、ハカセが予約したオーベルジュは汚かった。もともと値段からして期待しないほうがいいよとハカセはいっていたけれど、予想を超えた狭さとにおいのために、初日にして、ハカセはもう帰ろうかと引きつった笑顔で私に呟いたほどだ。でもせっかく来たんだからとなんとか私が機嫌をとると、ハカセはそこまでいうなら……と渋々ながら納得してくれた。そんな他愛ないことが、私にはうれしかった。
「こっちがフランス語で話しても、フロントの人はずっと英語なんだものね。ほかのお客もみんな英語だし」
「パリは国際的な観光都市って実感できますよね」
ハカセはしばらくパリをふらふらと遊びまわりたいといった。でも、ハカセはなぜかしらないけど、もともと旅行があまり好きじゃないらしい。旅行という特別な時間の使い方は、自分のペースで気楽に過ごす日常以上にハカセのお気には召さないようだ。私がせっせと旅行の計画を立て、どこをどう回るか、どの地下鉄を使うかといった予定を調整しながら、ハカセに「旅行は準備しているときが一番楽しいんですよね!」といっても、ハカセは「うん。全部、任せるよ」といったきり、ベッドの上でだらけた格好でiPodを聞いているだけだった。なんて投げやりなんだろう。
そんな調子だから、ルーブル美術館を回るときでも、私が地図を見ながらハカセの手を引っ張らないと、とても効率よく鑑賞することなんか不可能だった。ハカセは、前に一人で来たときは迷って同じところをぐるぐるしていたと、私の後を追いながら、無邪気に笑っていた。ハカセにはこういう奔放なところがある。
「ハカセはぜひ見たい絵とかないんですか?」
「とくに。絵画には詳しくないし……」
そういいつつ、ハカセは時折、ある絵に目をとめると、黙って、ずっと、いつまでも、その絵を眺めているということがあった。ときに立ち尽くしたまま、ときに距離を置いて、周りをぐるぐるして、椅子に座って。あるいは、ほかの大部分の作品は、足早に過ぎて行く。ただその目だけは動いている。その視線が何を捉えようとしているのか、私にはよくわからなかった。
「ハカセは私をいろいろな美術館に連れて行ってくれますけど、もしかして、それは私のためですか?」
「うん。それもあるかな」
「もしかして、私を人間みたいにするためですか。人間に近づけたいからですか。感受性を養うとか、そういった目的のためですか」
ギュスターヴ・モロー美術館の帰り、私はハカセに思いきって聞いてみた。ギュスターヴ・モロー美術館は、画家のモロー自身が生活していたアパルトマンを改造したもので、画家の在りし日の様子が思い浮かべられるその景観に、ハカセはいたく感じ入るものがあったように、私には見えた。
「ハカセ。私、昔は人間みたいになりたいとか、普通ということにあこがれていましたけど、でも、今はそんなことないです。ハカセと一緒にいられる毎日が楽しいです。それで満足です。だから、もし、ハカセが私を人間にしたいって思っているなら、それは……」
私がその言葉の続きをいおうとしたとき、ハカセはある店を指差し、ここで休もうかと、提案した。そこはパリによくある日本料理店のひとつだった。
「ラーメンが食べたくなっちゃったんだけど」
「ハカセ……?」
ハカセが「Japonais」というと、店員の人は日本語のメニューを持ってきてくれた。ハカセは「私はチャーシューメン頼むから、代わりにカツ丼頼んで」と私にいう。どっちも食べてみたいのだろう。そのとおりにした。
「……けっこうおいしかったね。この店よりおいしくないラーメン屋は新宿にいくらでもあるし」
食事のあと、ハカセはそんなことをいった。昔、新宿でおいしくないラーメン屋に当たって以来、ハカセはそのことを恨みに思っているらしい。
「ハカセ、さっきの話の続きですけど……」
「うん。私は、人間を作りたいわけじゃないよ」
「そうなんですか?」
「人間性とか人間らしさとか、私にはよくわからないし……」
「それじゃ、私に、何を望んでいるんですか?」
「考えてもらいたいんだ」
ハカセはそういって目を細める。私は、にわかに緊張を覚える。
「人の、意志や思想や、精神といったものが、何を生み出すか。ある偉大な製作の、その動機を。……マドレーヌの教会とか、すごかったよね。私、好きなんだけど、でもあれを作ったのはなんだろう? 作らしめたのはなんだろう? 絵も建築も、それを欲する精神の働き、人の心というものはなんだろう。……そういったことを、私と一緒に、考えてもらいたいんだ」
「……どういうふうに、考えればいいのか、わからないです」
「哲学者なら哲学的に考えるだろうし、そうじゃないなら、そうじゃないなりに考えるほかない。そして、考えている最中に、何か哲学が必要になったら、そのとき勉強すればいい。……大丈夫。私がついているよ」
ハカセはそういって私の手に自分の手を重ねた。――これからどこに行こうか? ハカセが問う。――ハカセはどこに行きたいですか? 私が聞く。ハカセは、
「遠くに行きたいな」
と、いう。
ハカセは私をそこへ連れて行ってくれるという。……でも、ハカセ、たぶん私にはハカセについていくだけの力がないと思うんです。いつか、ハカセは私には届かないどこかに行ってしまうんじゃないかって気がするんです。ただ、私は今、ハカセと一緒にいる幸福を思いたい。それをハカセは許してくれるんでしょうか?
「こっちがフランス語で話しても、フロントの人はずっと英語なんだものね。ほかのお客もみんな英語だし」
「パリは国際的な観光都市って実感できますよね」
ハカセはしばらくパリをふらふらと遊びまわりたいといった。でも、ハカセはなぜかしらないけど、もともと旅行があまり好きじゃないらしい。旅行という特別な時間の使い方は、自分のペースで気楽に過ごす日常以上にハカセのお気には召さないようだ。私がせっせと旅行の計画を立て、どこをどう回るか、どの地下鉄を使うかといった予定を調整しながら、ハカセに「旅行は準備しているときが一番楽しいんですよね!」といっても、ハカセは「うん。全部、任せるよ」といったきり、ベッドの上でだらけた格好でiPodを聞いているだけだった。なんて投げやりなんだろう。
そんな調子だから、ルーブル美術館を回るときでも、私が地図を見ながらハカセの手を引っ張らないと、とても効率よく鑑賞することなんか不可能だった。ハカセは、前に一人で来たときは迷って同じところをぐるぐるしていたと、私の後を追いながら、無邪気に笑っていた。ハカセにはこういう奔放なところがある。
「ハカセはぜひ見たい絵とかないんですか?」
「とくに。絵画には詳しくないし……」
そういいつつ、ハカセは時折、ある絵に目をとめると、黙って、ずっと、いつまでも、その絵を眺めているということがあった。ときに立ち尽くしたまま、ときに距離を置いて、周りをぐるぐるして、椅子に座って。あるいは、ほかの大部分の作品は、足早に過ぎて行く。ただその目だけは動いている。その視線が何を捉えようとしているのか、私にはよくわからなかった。
「ハカセは私をいろいろな美術館に連れて行ってくれますけど、もしかして、それは私のためですか?」
「うん。それもあるかな」
「もしかして、私を人間みたいにするためですか。人間に近づけたいからですか。感受性を養うとか、そういった目的のためですか」
ギュスターヴ・モロー美術館の帰り、私はハカセに思いきって聞いてみた。ギュスターヴ・モロー美術館は、画家のモロー自身が生活していたアパルトマンを改造したもので、画家の在りし日の様子が思い浮かべられるその景観に、ハカセはいたく感じ入るものがあったように、私には見えた。
「ハカセ。私、昔は人間みたいになりたいとか、普通ということにあこがれていましたけど、でも、今はそんなことないです。ハカセと一緒にいられる毎日が楽しいです。それで満足です。だから、もし、ハカセが私を人間にしたいって思っているなら、それは……」
私がその言葉の続きをいおうとしたとき、ハカセはある店を指差し、ここで休もうかと、提案した。そこはパリによくある日本料理店のひとつだった。
「ラーメンが食べたくなっちゃったんだけど」
「ハカセ……?」
ハカセが「Japonais」というと、店員の人は日本語のメニューを持ってきてくれた。ハカセは「私はチャーシューメン頼むから、代わりにカツ丼頼んで」と私にいう。どっちも食べてみたいのだろう。そのとおりにした。
「……けっこうおいしかったね。この店よりおいしくないラーメン屋は新宿にいくらでもあるし」
食事のあと、ハカセはそんなことをいった。昔、新宿でおいしくないラーメン屋に当たって以来、ハカセはそのことを恨みに思っているらしい。
「ハカセ、さっきの話の続きですけど……」
「うん。私は、人間を作りたいわけじゃないよ」
「そうなんですか?」
「人間性とか人間らしさとか、私にはよくわからないし……」
「それじゃ、私に、何を望んでいるんですか?」
「考えてもらいたいんだ」
ハカセはそういって目を細める。私は、にわかに緊張を覚える。
「人の、意志や思想や、精神といったものが、何を生み出すか。ある偉大な製作の、その動機を。……マドレーヌの教会とか、すごかったよね。私、好きなんだけど、でもあれを作ったのはなんだろう? 作らしめたのはなんだろう? 絵も建築も、それを欲する精神の働き、人の心というものはなんだろう。……そういったことを、私と一緒に、考えてもらいたいんだ」
「……どういうふうに、考えればいいのか、わからないです」
「哲学者なら哲学的に考えるだろうし、そうじゃないなら、そうじゃないなりに考えるほかない。そして、考えている最中に、何か哲学が必要になったら、そのとき勉強すればいい。……大丈夫。私がついているよ」
ハカセはそういって私の手に自分の手を重ねた。――これからどこに行こうか? ハカセが問う。――ハカセはどこに行きたいですか? 私が聞く。ハカセは、
「遠くに行きたいな」
と、いう。
ハカセは私をそこへ連れて行ってくれるという。……でも、ハカセ、たぶん私にはハカセについていくだけの力がないと思うんです。いつか、ハカセは私には届かないどこかに行ってしまうんじゃないかって気がするんです。ただ、私は今、ハカセと一緒にいる幸福を思いたい。それをハカセは許してくれるんでしょうか?
