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salut!
これは丁寧にどうも。お返し、というのものもでもないが、僕は邦訳(ちくま文庫、田辺保訳)を持っているのでちょいと引用してみよう。
≪隣人を救うのも、キリストの「ために」ではなく、キリストに「よって」ということでありたい。このわたしが消え去り、わたしたちの肉と霊が仲立ちとなり、それを用いてキリストが隣人を救うというふうでありたい。不幸な人に、救いをもたらすようにと主人から派遣されるしもべのようになることである。救いは、主人から与えられるのであるが、それは不幸な人を目あてとしている。キリストは、父なる神のために苦しんだのではない、父のみこころによって人々のために苦しんだのである。≫(81ページより)
どうでもいいんですが、この「霊」と「肉」は esprit と chair だと思っていたんですが、ame と corps なんですね、いや、仏語の語感わかんないけど。
ヴェイユはおもしろいです、どうおもしろいかはうまく説明し難いけど。
2011-12-01 木 09:47:20 /URL /紫のもの /
編集
>紫のものさん
どうも。
ああ、そう、そういう訳ですか、なるほど。
Que le moi disparaisse以下はたしかに全部、願望でとったほうがいいでしょう。
Etre l'esclaveのところは、私も迷ったのですが、やっぱり「~こと」か。命令でとるのは無理筋かな。
「霊」と「肉」のところは私にはなんともいえません。ただヴェイユのテクストでこれらの語がどういう風に扱われているかを追っていくと、おもしろいことがわかるかもしれません。
2011-12-02 金 07:53:19 /
URL /石田麦 /
編集
2011/12/01/Thu
「咲-Saki-」のアニメでは麻雀をしていないときはお茶を飲むシーンがよくあったようにぼんやりと記憶している。あとは外で風に当っているシーン。ほら、衣とか、よく高いところに座って遠くを眺めていたろう。実をいうと、私は衣が好きなんだ。
いきなりなんの話を始めたかと奇妙に思われる方もいるかもしれないが、なに、ただフランス人というのは戸外が好きだなということをつらつら思うからだ。散歩するのはもちろん、外でよくおしゃべりしているのはどこでも見るし、食事しているのも日常のことだ。さすがに冬になるとそれもきびしいが、しかし、カフェなどでは寒風に吹かれながらもコーヒーを片手に新聞を見ている老紳士を見かける。寒くないのだろうか。
なぜこんなに外が好きなんだろうと、日本にいる時分は合点がいかなかったが、しかし実際にフランスで暮らしてみると、フランスの大気というものは実に心地いい。これにはちょっと驚いた。空気が乾燥しているからだろうか。東京の、あの、じめじめした高熱の空気を体験したあとでは、その差異はより強烈に感じる。というか、日本の夏はきつすぎる。クーラーが当り前となった今では、クーラーなしでどう夏を乗り切っていいかわからない。しかし、ああ、まあ、今年はいろいろあったか。そういえば。
さきほど、冬に外でコーヒー飲んで寒くないのだろうかといったが、しかし、実際に彼らのうちの何人かは寒くないのかもしれない。というのも、外ではコートを着ていても、建物のなかでは半袖シャツでいる連中がどこにも一定数いるからだ。季節感がない、という以前に、寒さなど感じないほど身体が頑健なのかと思ってしまう。私は東北の出身で、寒さにはそれなりに慣れているつもりだが、冬に半袖シャツで過す気には到底なれない。たとえそれが屋内であっても。
気持のいい風に当ってぼんやりするというのは格別の楽しみがあるものだ。それをバルコニーでぼーっとしていると強く思う。そういえば、また「咲-Saki-」の話で恐縮だが、部室の窓から屋根に出ることができて、で、その屋根にチェアが置いてあって、そこに寝そべることができるってシーンがあったじゃない。あれはいい。実にいい。ああいうものがほしいものだと思う。きっと気持いいだろう。私は高いところが好きなんだ。
あとは余談のようなものだが、
紫の人が「隣人を救うのも、キリストの「ために」ではなく、キリストに「よって」、ということでありたい」という一節が印象に残っているという話をしていたけど、それは原文では以下のようになっている。今、私は邦訳を持っていないので比較できないけど、まあ参考に。というか、ヴェイユのテクストはネット上にあったかな? 今度、確認してみよう。
Il ne faut pas secourir le prochain
pour le Christ, mais
par le Christ. Que le moi disparaisse de telle sorte que le Christ, au moyen de l'intermédiaire que constituent notre âme et notre corps, secoure le prochain. Etre l'esclave que son maître envoie porter tel secours à tel malheureux. Le secours vient du maître, mais il s'adresse au malheureux. Le Christ n'a pas souffert pour son Père. Il a souffert pour les hommes par la volonté du Père.
キリストのために隣人を救ってはならない。キリストによってでなくてはならない。自我は消えよう、そして、キリストは、私たちの魂と身体を構成する中間物によって、隣人を救う。彼の主が、そのような不幸な人にそのような救いをもたらせに行かせしめる、奴隷であれ。救いは主より来たり、しかして救いは不幸な人へと差し向けられる。キリストは彼の父のためには苦しまなかった。彼は父の意志により、人々のために苦しんだのだ。
salut!
これは丁寧にどうも。お返し、というのものもでもないが、僕は邦訳(ちくま文庫、田辺保訳)を持っているのでちょいと引用してみよう。
≪隣人を救うのも、キリストの「ために」ではなく、キリストに「よって」ということでありたい。このわたしが消え去り、わたしたちの肉と霊が仲立ちとなり、それを用いてキリストが隣人を救うというふうでありたい。不幸な人に、救いをもたらすようにと主人から派遣されるしもべのようになることである。救いは、主人から与えられるのであるが、それは不幸な人を目あてとしている。キリストは、父なる神のために苦しんだのではない、父のみこころによって人々のために苦しんだのである。≫(81ページより)
どうでもいいんですが、この「霊」と「肉」は esprit と chair だと思っていたんですが、ame と corps なんですね、いや、仏語の語感わかんないけど。
ヴェイユはおもしろいです、どうおもしろいかはうまく説明し難いけど。
2011-12-01 木 09:47:20 /URL /紫のもの /
編集
>紫のものさん
どうも。
ああ、そう、そういう訳ですか、なるほど。
Que le moi disparaisse以下はたしかに全部、願望でとったほうがいいでしょう。
Etre l'esclaveのところは、私も迷ったのですが、やっぱり「~こと」か。命令でとるのは無理筋かな。
「霊」と「肉」のところは私にはなんともいえません。ただヴェイユのテクストでこれらの語がどういう風に扱われているかを追っていくと、おもしろいことがわかるかもしれません。
2011-12-02 金 07:53:19 /
URL /石田麦 /
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