「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」における愛の問題
2017/01/30/Mon
ピョートルは人間について、軽蔑という一つの理解しか持っておらず、それ以外に想像を働かせないから、逡巡することがない。だからかれは実行家なのである。
(中村健之介『ドストエフスキーの詩学』)
(中村健之介『ドストエフスキーの詩学』)
鉄血のオルフェンズはずっと楽しく見ている。当初は、私は三日月をオルガに対するメフィストフェレス、あるいはドストエフスキーの『悪霊』のピョートルのような人間だと考えていた。前者については今でもそうかもしれないとは考えているけれど、後者についてははっきり私の思い違いだった。というのは、さほど権力欲や上昇志向があるようには思えないオルガが一途に社会的上昇を目指すのは三日月の視線のためであるのはまちがいなく、だから三日月をメフィストフェレスと解釈するのはさほど困難ではないと思えるのに対して、三日月には内面生活があるようには見えなかったから。これは意図的な作劇で、あえて三日月の心中を本作は描写しない。だから、私は初めは、三日月をまったく内面生活の欠如したピョートル的なモンスターだと考えていた。内面生活がなく、品性がないと、ピョートル的怪物が誕生する。一方、内面生活が欠落し、品性があると、聖人になる。たとえば、ロボットアニメでいえば、ボトムズのキリコや、そのキリコをモデルにしたフルメタの宗介あたりだろうか。まあ、キリコはかなり俗っぽい面を持つ男で、幼少期の宗介のほうがそれに近い。作中でも子ども時代の宗介は殺人聖者だったと形容されていたように記憶している。興味深いのは、キリコも宗介も、愛によって、内面生活を獲得した点だ。愛によって、二人は変わった。では三日月はどうか。私は愛で三日月は変わらないと思っていた。いやはや、私の見当はずれ甚だしい。三日月は、逆で、愛しかない人間だった。行動の動機のすべてが、オルガへの愛に支えられている。
普通の人がピョートルを理解しようとしても、とりつく島がないのである。孤独感や不安や後悔はピョートルには無縁である。自省力としての感情が形成されないまま人びとの間を泳ぐこの男は、たしかに一種の「モンスターなのである。
つまりピョートルは、他人を理解するということが、できないし、その必要もないのである。
(中村健之介『ドストエフスキーの詩学』)
オルガもマクギリスも悩みに悩む人間で、それゆえに強い動機を持つ。しかし、三日月には内面生活がない。自省力がないから、モチベーションがない。しかし、行動的で実際的だ。内面生活がなくて行動的というのは、ドストエフスキーの『悪霊』のピョートルのように、怪物だ、と以前の私は考えていたわけだ。だが、しかし、愛しか行動原理を持たない三日月は、はてさて、怪物ではないのか? もしかしたら、依然として、彼は怪物かもしれない。、オルガやマクギリスは悩む。だから、彼らは人間らしい。だが、愛のほかに何も存在理由を所有しない、する必要のない三日月は、やはり聖人か、怪物なのだろう。思い出す限りだと、ガンダムシリーズにそういう怪物や聖者はいなかった。俗っぽい人しかいない。戦争ものだから当たり前といえば、当たり前だけど。ただ、しかし、これは宇宙世紀の富野作品のガンダムものに限るかもしれない。もちろん、そこに愛がなかったとはいわない。ガンダム主人公の多くはは、程度の差こそあれ、愛のために戦っていた。だが、三日月のそれは少し度が過ぎている。そして、彼の愛の理由と背景を、作中のだれも理解しようとはしていないのではなかろうか。報われることを望まぬ愛を、純粋と呼んで、果たして正しいのだろうか。
中村健之介『ドストエフスキーの詩学』