(ゆるキャン△)「私だけに微笑んで」
La jalousie ne permet jamais de voir les choses telles qu'elles sont. Les jaloux voient le réel à travers un miroir déformant qui grossit les détails insignifiants, transforme les nains en géants et les soupçons en vérité. (Miguel De Cervantes)
嫉妬によって、人は事物をあるがままに見ることが決してできなくなる。嫉妬に駆られた人は、取るに足らない部分を大きくしたり、小人を巨人に、疑念を真実に変えてしまうような、事実を歪曲する鏡を通して、現実を見ているのだ。(ミゲル・デ・セルバンテス)
私の好きな子は本とキャンプが好き。
「それ、なでしこちゃんへのおみやげ?」
「……食べ物のほうが喜ぶかと思って」
はにかみながら、彼女はそう答える。それは私の知らない彼女の表情。私にはまだ見せてくれたことのない彼女の感情が透けて見えるような、淡い微笑。
「斉藤、代わりに渡してきて」
「いやいや。リンから渡しなよ。そのほうが喜ぶと思うけどな、なでしこちゃん」
心にもない言葉を、変わらない表情で、私は言葉にする。……いつか、リンは私のことを「おせっかい焼き」って、いっていたっけ。当たってるなぁ。リンはどうでもいいところでは聡くて、肝心なところでは鈍感だ。
「私、そろそろ帰るよ」
「うい」
これ以上、私の知らない表情をするリンの側にいるのが嫌だったから、なでしこちゃんへのおみやげを持って逡巡している彼女と一緒にいるのがつらかったら、もしこのあとなでしこちゃんが図書室へ来たら、リンとどんな言葉を交わし合うのか――その場に立ち会うのが怖かったから、私はそそくさと、でもいつもの私のように、何も気にしていないように、自由に、明るく、颯爽と、図書室を後にした。
(リン、私にはおみやげないの?)
……とは、結局、聞けなかったなぁと、道々、私は後悔した。心がささくれ立っているのか、慣れているはずの冬風の冷たさが今日はやけに身に沁みる。
――こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。
最近、よくそんなことを思う。――放課後の西日の差す廊下を歩きながら、図書室を覗き込むと、いつものようにリンがいる。カウンターに座って、俯き加減で、リンは膝元の本に視線を落としていたり、あるいはスマホをいじっていたり、もしくは物憂げな様子で、すっかり葉の落ちた校庭の裸木を、ときどき彼女は眺めている。そんなときの彼女の横顔が凛々しくて、どことなく寂しげで、私は好きだった。……本が好きな彼女は、昼休みやバイトのない放課後は大抵こんな風に図書室にいて、そんな彼女と話すのは、いつも私一人だけ。私がリンの一番の、私だけが彼女の友だちだったから。……だから、リンの細くて小さい指がページをめくるときの微かな動きや、彼女の長い黒髪の触り心地、彼女の細い肩、華奢な体躯が、見た目に反してアウトドア趣味で意外と頑丈なところとか、そういうことは私だけが知っている秘密だったと思う。私だけが知っている、リンのこと。……でも、今日のスマホを眺めているリンは、穏やかで、どこかうれしそうな、恥ずかしそうな、そんな表情をしていて、そんな顔をするリンを、私は知らなかった。――だれのせい? ……なでしこちゃんだ。
(なでしこちゃんをけしかけたのは私か。バカなことしたかな)
なんで、そんなことしたんだろう。リンの中でなでしこちゃんが特別な存在になっていく。リンが私の知らないリンに変わっていく。……それはいいこと? ……いいことなのかな。
(リンが少しは変わることを私は望んでいたってことか。リンって私以外に友だちぜんぜんいないし。でも、それは私にとってよかったかも。いやいや、そうじゃなくて、リンがもうちょっと他人に興味持ってくれれば、私との関係も変わるかもしれないって、たぶん、そう、それを期待したから。……打算だな)
「あ、またニヤニヤしてる」
――リンの不意を狙って、声をかける。案の定、リンはうろたえる。――また、なでしこちゃんとの写真を見ていたの?……とは聞けない。そんな勇気は、私にはない。……でも、こんなかわいい顔するリン見たことなかった。それはだれのせい? ――こんなはずじゃなかったんだけどな。
「……ねえ、リンって」
「斉藤?」
「なんで、私のことは下の名前で呼んでくれないの? なでしこちゃんは、なでしこって、呼ぶくせに。私は……」
リンの特別じゃないの?と、消え入るような、私らしくない声音で、私は彼女に問うていた。
本を読んでいるときのリンちゃんは格好いい。読書に集中しているリンちゃんは、こっそり私が図書室に入ってきたことにも気づかない。ストーブの側のカウンターで頬杖をつきながらページをめくるリンちゃんの横顔をチラッと眺めて、私は笑顔になる。そのままリンちゃんに気づかれないように図書室の奥、書棚の影に身を滑らせる。本当は声をかけてもよかったんだけれど、読書中のリンちゃんの邪魔をしたくなかったし、それにもうすぐで下校時刻だから、リンちゃんの図書委員の仕事が終わってから、話しかけようって思う。そのほうがゆっくりお話できるもんね。クラスがちがうと、なかなかリンちゃんとおしゃべりする機会がないから。リンちゃんと話したいこと、リンちゃんに聞きたいこと、いっぱいあるんだ。……リンちゃんも野クルに入ってくれたらいいのになぁ。そうしたら、もっとずっと一緒にいられるのに。……キャンプのこと、リンちゃんが読んでいる本のこと、リンちゃんは私の知らない世界をたくさん知っている。――あの夜、本栖湖で出会ったリンちゃんは、私にとって未知の世界へ誘ってくれる、魔法使いのような少女だった。……少しでもリンちゃんの世界に近づけたらいいのに。
……書架の本を眺めながら、時間の過ぎるのを待っていると、やがて、図書室から人がいなくなっていた。残っていたのは、隠れている私と、リンちゃんと、そして、斉藤さん。
斉藤さん、いつの間に来たんだろう。私はすぐ二人に話しかけるつもりで、書棚の影から二人の様子をうかがった。けれど――斉藤さんと話しているときのリンちゃんの表情を見て、私はドキッとしてしまった。だって、私の知らない顔をしていたから。……斉藤さんとふたりでいるときのリンちゃんは、なんていうか、安心している。リラックスしていて、穏やかで、普段は物静かなリンちゃんが斉藤さん相手だとよくおしゃべりする。……それは、二人が長い付き合いだからかな。そうだよね。だって、私はリンちゃんと知り合ったばかりだから。……だから、私がリンちゃんのことをよく知らなくて当然で、私が気にすることなんて何もないんだけど、でも、リンちゃんと斉藤さんって、よく二人でイチャイチャしてるし、図書室でほかの人がまだいるなかで、みんなの前で髪いじって……。
リンちゃんは、私がこっそりリンちゃんを見ていることに気づいてくれない。斎藤さんはリンちゃんを見ている。リンちゃんも斉藤さんを見ている。二人の間に流れる空気が、私はちょっとだけ嫌だった。
――それ以上、私の知らない顔をするリンちゃんを見ていたくなくて、私は書棚の角にもたれて、その場にふて寝した。図書室の床はひんやりと冷たかった。