萌えについて
2006/07/26/Wed
萌えとは本来的には切実なものである。それは人生を退屈でも楽しく生きるための知恵である。人生の日々を生きやすくするための一方途である。極言すれば、萌えがなくても生きていけるが、萌えにあらわされる営為がなければ生きにくい人が存在するのである。
萌えの根底には悲観がある。生とはおのずから茨に縁取られた道であることを知らずにはいられなかったものが、萌えの力を借りなければならなかったものが、萌えの発生の最初の理由である。神聖さ、親愛さ、優しさ、道徳、美徳、人に示される内在霊性の顕現を信じられずに絶望する一歩手前、それを失ったらもはや術のないものによって、萌えの価値は肯んじられる。
萌えを希求する人間はその意味で後退することができず、後退する場所が見出せず、前進も後退もただただみずからの血肉を穿つほかに空さえ届かない、哀れな空虚な現実に、夏の夜の夢の一幕に、自分が呆然と愕然と立たされていることを知っている人間である。
だから萌えが現在のような立場に下ったら、術は失われたのである。もはや悲観はない。ただただ笑いがあるのみである。明るくて、決してつかめない笑いがあるのみである。
よって萌えはその存在をなくした。もはや萌えに用はない。
萌えの根底には悲観がある。生とはおのずから茨に縁取られた道であることを知らずにはいられなかったものが、萌えの力を借りなければならなかったものが、萌えの発生の最初の理由である。神聖さ、親愛さ、優しさ、道徳、美徳、人に示される内在霊性の顕現を信じられずに絶望する一歩手前、それを失ったらもはや術のないものによって、萌えの価値は肯んじられる。
萌えを希求する人間はその意味で後退することができず、後退する場所が見出せず、前進も後退もただただみずからの血肉を穿つほかに空さえ届かない、哀れな空虚な現実に、夏の夜の夢の一幕に、自分が呆然と愕然と立たされていることを知っている人間である。
だから萌えが現在のような立場に下ったら、術は失われたのである。もはや悲観はない。ただただ笑いがあるのみである。明るくて、決してつかめない笑いがあるのみである。
よって萌えはその存在をなくした。もはや萌えに用はない。