人間存在の根本意義としてのエロス、という話
2008/01/20/Sun
「またまた思春期関係の話。身体の性意識に目覚めると、それはこれまで親愛、友愛だけで事足りていた人間関係に新たに性愛のカテゴリを加えなくていけなくなってしまう‥というのは果してあるのかな?というの。性愛だけで成り立つ関係。それって何かな。セフレとかっていうやつかな。」
「ま、そうでしょうね。性愛でのみ他者を判断し、そして関係する関係性があるとするならば、それは性のみに限定されたものということになるのでしょ。」
「セフレというのかーと考えて、私は性愛のみに留まる人間関係というのはありえないなって思う。いくら私たちセックスだけの関係よーといっても、そこには人間関係の孤独をごまかす虚偽がある。というのも性愛というのは友愛、信頼の基礎にあるもので、性愛なくして他者を信頼するということは、たぶんできないのでないかなって思うから。むずかしい話だけど、性愛というのは身体に限定されたものでなくて、それは精神にも大きく関係するものであり、むしろそれは心の有様の表現形式のひとつであるから。‥とかいっちゃうとなんかむちゃくちゃ。プラトンは愛慕の説‥人間はもともと完璧な両性具有の存在だったのだけど、それが引き裂かれたがために人は自己の半身を追い求めるなんてアンドロギュヌスの説を説いてますけど、私は、これがけっこうただの神話的表現に留まるものでないなって気がする。ある意味愛欲というのは、存在の飢えとでもいうもので、それは自己とまったく同一でない他者に、否応なく引きつけられるっていう人の本能的欲求というのものであって、つまり性愛の基礎には他者を必要とする人間の孤独の相貌がみえる。それだから性愛だけの関係というのはありえない。なぜならみずからの孤独見つめることなくして、他者をどうしようなく求めるっていう愛欲の神秘な力は見果てないから。‥あー、こういう文学的表現に墜しちゃうのが私のわるい癖かも。なんだかまた長くなっちゃった、な。」
「いつものことでしょ。ま、生物の歴史という側面で見ると、アンドロギュヌスというのは性が分化される以前の生命の性の有様、それは性と呼ばれるものではないでしょうけど、性になるべき潜在的な性ではあった‥なんて議論もできるかしらね。」
「うん。でもなんだかとんでも。」
「あんたがいうな。」
「でも性の話はむずかしいね。エロティシズムと、エロティシズムにふりまわされる人間と、そしてけれども人が愛をがむしゃらに求めたがるのって、やっぱりよくわからない面がとてもある気がする。だから性愛は文学のテーマであって、さらに孤独のことでもあるのだろうけど、なんかわかんないね。うまく言葉にできない部分も、この問題にはあるみたい。」
「性に振り回されるのが人間だからかしら。どんな性意識をもつかというのはほとんど無意識の支配する領域で、だからこそ個人個人の個別な問題といえばそうなのでしょうけど、しかしやはりひとつの宿命というものではあるかしらね。意識的にはどうすることもできない暗黒の性意識というものが、人にはときおり恐怖でもあるのでしょう。」
『‥性とは、煎じつめれば、二元的に展開された生命の一つの表現形式、としかいえないのではなかろうか。そして性的結合は、この二元性を解消し、非連続の個体をして連続性を回復せしめようという、大きなエロスのはたらきのもとに統括されるべき、一つの運動にすぎないのではなかろうか。両性を互いに牽引する力は、生殖本能よりも、エロティシズムよりも、じつはもっと大きな何物かの力(かりにエロスと呼んでおくが)の働きによるものであって、それは失われた無差別性、失われた絶対的一元性をふたたび回復するための、ある解放への盲目的意志とでも呼ぶ以外に呼びようがないものではなかろうか。』
澁澤龍彦「エロス。性を越えるもの」
澁澤龍彦「エロス的人間」
「ま、そうでしょうね。性愛でのみ他者を判断し、そして関係する関係性があるとするならば、それは性のみに限定されたものということになるのでしょ。」
「セフレというのかーと考えて、私は性愛のみに留まる人間関係というのはありえないなって思う。いくら私たちセックスだけの関係よーといっても、そこには人間関係の孤独をごまかす虚偽がある。というのも性愛というのは友愛、信頼の基礎にあるもので、性愛なくして他者を信頼するということは、たぶんできないのでないかなって思うから。むずかしい話だけど、性愛というのは身体に限定されたものでなくて、それは精神にも大きく関係するものであり、むしろそれは心の有様の表現形式のひとつであるから。‥とかいっちゃうとなんかむちゃくちゃ。プラトンは愛慕の説‥人間はもともと完璧な両性具有の存在だったのだけど、それが引き裂かれたがために人は自己の半身を追い求めるなんてアンドロギュヌスの説を説いてますけど、私は、これがけっこうただの神話的表現に留まるものでないなって気がする。ある意味愛欲というのは、存在の飢えとでもいうもので、それは自己とまったく同一でない他者に、否応なく引きつけられるっていう人の本能的欲求というのものであって、つまり性愛の基礎には他者を必要とする人間の孤独の相貌がみえる。それだから性愛だけの関係というのはありえない。なぜならみずからの孤独見つめることなくして、他者をどうしようなく求めるっていう愛欲の神秘な力は見果てないから。‥あー、こういう文学的表現に墜しちゃうのが私のわるい癖かも。なんだかまた長くなっちゃった、な。」
「いつものことでしょ。ま、生物の歴史という側面で見ると、アンドロギュヌスというのは性が分化される以前の生命の性の有様、それは性と呼ばれるものではないでしょうけど、性になるべき潜在的な性ではあった‥なんて議論もできるかしらね。」
「うん。でもなんだかとんでも。」
「あんたがいうな。」
「でも性の話はむずかしいね。エロティシズムと、エロティシズムにふりまわされる人間と、そしてけれども人が愛をがむしゃらに求めたがるのって、やっぱりよくわからない面がとてもある気がする。だから性愛は文学のテーマであって、さらに孤独のことでもあるのだろうけど、なんかわかんないね。うまく言葉にできない部分も、この問題にはあるみたい。」
「性に振り回されるのが人間だからかしら。どんな性意識をもつかというのはほとんど無意識の支配する領域で、だからこそ個人個人の個別な問題といえばそうなのでしょうけど、しかしやはりひとつの宿命というものではあるかしらね。意識的にはどうすることもできない暗黒の性意識というものが、人にはときおり恐怖でもあるのでしょう。」
『‥性とは、煎じつめれば、二元的に展開された生命の一つの表現形式、としかいえないのではなかろうか。そして性的結合は、この二元性を解消し、非連続の個体をして連続性を回復せしめようという、大きなエロスのはたらきのもとに統括されるべき、一つの運動にすぎないのではなかろうか。両性を互いに牽引する力は、生殖本能よりも、エロティシズムよりも、じつはもっと大きな何物かの力(かりにエロスと呼んでおくが)の働きによるものであって、それは失われた無差別性、失われた絶対的一元性をふたたび回復するための、ある解放への盲目的意志とでも呼ぶ以外に呼びようがないものではなかろうか。』
澁澤龍彦「エロス。性を越えるもの」
澁澤龍彦「エロス的人間」
